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速読多読 第七弾 社会学の根本概念

速読多読 第七弾 社会学の根本概念 ヴェーバー著 随分更新するのが遅くなってしまっていますが、12月26日に第七弾の速読をしたのですが、そこから何日間か忙しくて更新できませんでした! それはそれとして、12月26日分を書きます! 2016年12月26日 読了時間:30分 今日は外出の予定があったので、移動の電車の中で読んでいました。時間を本当に極力かけずに読んだので、本当に速読って感じでした。でも、その分本当にほとんど何も理解できなかったです。やはり速読は簡単ではないです。一応内容についても理解したことをまとめます。 内容について この本はタイトルからもわかるように、この本においてはヴェーバーが社会学における諸概念に対して説明を与える内容になっている。注目すべき点としては、ヴェーバーの社会学に対する理解や立場が明らかにされている点である。 ここで示されている社会学のあり方は、ヴェーバーの次の言葉に集約される。 ”社会的行 為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学” このような社会学に対する考え方は、意味社会学と呼ばれている。 つまり、事実それ自体というより、社会的な出来事へ与えられる解釈を重要視し、その解釈の関連の様式、法則性としての社会的法則を明らかにしようとする試みが社会学であるという考え方である。 この姿勢は、社会的な事実を重要視するデュルケムとは対照的な姿勢である。いうなればデュルケムは客観的な社会的事実があるという姿勢をとるが、ヴェーバーはそう言った客観的な事実というようなものの存在を積極的に評価するような姿勢はとらず、出来事に対して社会や個人が与える意味を重要視する姿勢をとっているということである。 総じて、ヴェーバーの社会学は解釈に注目し、それらの関連から現象の一般規則を求めるものである。

速読多読 第六弾 送り火

速読多読 第六弾 送り火 重松清著 2016年12月24日  読了時間 6時間 わかってます。6時間はもはや速読でもなんでもありません。普通に読んでました。 斎藤孝さんは速読は小説の方が楽だといっていました。なぜなら、主題のみに注目をしてそれにかかわる部分だけを切り取って読むことがしやすいからだそうです。 でも、いいわけがましいんですが、それって僕にはなかなか難しいことだなぁと気が付きました。主題に関係するもののみを読めばいいとはいえ、何が主題なのかを読む前に知っておくこともなかなか難しいですし、小説ってなんとなく描かれている出来事以上の抽象的な意味があると思うので、ストーリーとしての内容は速読でも拾えるのかもしれないですが、そういう抽象的な部分は時間をかけて呼んでいかないとわからないのではないか、と思うからです。と、いい訳をさせておいてください。笑 内容について 小説の内容はどうやって書くのが正解なのかわからないので、とりあえず口語体のまま紡いでいくことにします。今日2冊目の物語も重松清さんの作品でした。だから、今日はものがたりデーであると同時に重松清デーでもあったということですね。 送り火は、富士見線という私鉄沿線の街を場面にした、少しファンタジックな短編集の一冊になっています。そうしたいくつかのお話の中で共通して描かれているテーマは、「大切な存在との関係」かなと思いました。かなりざっくりしててすみません。僕がここで言う大切な存在というのは、「家族」であったり、「恋人」であったり、「友人」であったり、はたまた「過去の自分自身」であったり様々です。そうした大切なものとどう向き合っていくのか、それらが持つ意味とは何か。そうした問いを登場人物の日常の描写を通して読者に投げかけるようなそんな内容になっています。 自分自身も読んでいて、家族って何だろう、夫婦って何だろう、親子って何だろう、と様々考えさせられると同時に、そうした一見当たり前のように自分の人生を構成している基本的な関係も模範解答的なものはないんだな、自分で少しづつ定義していっていいんだな、と気づかされました。こんな風に考えることができるということ自体が、伝統からの束縛が弱まったことの表れなのでしょうか。少しズレてしまいましたね、すみません。 シメ方が分からないので、この物語の中で印象...

速読多読 第五弾 トワイライト

速読多読 第五弾 トワイライト 重松清著 2016年12月24日 読了時間 3時間 現在は12月25日の早朝ですが、これは12月24日に読んだ分の振り返りだということをご了承ください。笑 昨日は一日友人と楽しく外出していたので、本は読目なかったのですが、一日一冊から二冊を読もうという挑戦は続けています。笑 今日は、今日までの何日間かずっと読んでこなかった小説を読むことにしました。そして、選んだ小説が重松清さんが著されたトワイライトという作品でした。 重松清さんは、自分が小学生のころから読み続けている作家であり、今も積読している著書が何冊かあります。 内容について かつて抱いていた輝かしいはずの未来のほとんどは、現実になることなく朽ち果てていき、気が付けば誰もが平凡な人生の中を生きている。現実は時に残酷なものなのだ。登場人物たちも、そうした平凡な日常を生きる、未来に希望を抱くことができない人間のひとりだ。彼らは、小学生のころに埋めたタイムカプセルー希望ーを掘り起こすべく再会を果たす。その再会は、同時に未来がまだ希望だった頃の彼ら自身との再会でもあった。その残酷なめぐりあわせは、彼らの今をぐらつかせる。過去との対比の中で、彼らは哀れな今から目を背けることが出来なくなってしまうのだ。しかし、それでも彼らは生きていく。未来へと希望を託しながら。 だめだ…。小説の内容ってどうやって書くのが正解なのかがわからない…。 今の自分は、まだ20歳で。そんな自分にとって未来は、もちろん不安だらけではあるけれど、まだ”希望”なのかなと思う。 ただ、そんな若い自分でも、小学生のころに抱いていたような楽観的な将来観を持つことはできないし、小さいころ自分が自分自身に抱いていた可能性の感覚はあまりにも非現実的で、というよりもまぶしすぎて直視することを避けてしまいたくなる。 きっと過去に抱いていた未来への希望を直視しようとする時に感じるこの後ろめたさに似た感覚は、年を重ねるごとに大きくなるのだと思う。そして、それはきっと抱いていた希望や夢の未来と現実の間に空いてしまった無慈悲な距離の大きさに比例しているんだと思う。 もしかしたら、自分も将来いろんな形で、この物語の登場人物のように夢の将来と現実の開きに気づかされて、未来に大きな希望を抱くことができなくなる時が訪れる...

速読多読 第四弾 テロリズム

速読多読 第四弾 テロリズム チャールズ・タウンゼンド 宮坂直史訳 2016年12月22日 読了時間 1時間 今日まではデュルケムやヴェーバーなどの古典を読むことが多かったが、今日は古典から少し離れた教科書的な本を読んでみました。ほんとにバババーッて読んだので、正直まとめてかけるほど内容をきちんと理解していないと思うのですが、うまくいったことばかり書くのはずるい気がするので、あまりきちんと読めなかった今日も記録をしていこうと思います。 内容 この本は、Oxford University Pressから出ているA Very Short Introduction Seriesの日本語訳である。そのため、テーマについて著者が持論を述べるというよりは、テーマについて一般的な事柄を簡潔に且つ包括的に述べていくというような構成の本になっている。題にあるように、この本のテーマはテロリズムである。よってこの本はテロリズムについての一般論をいくつかの項目に分けて述べている。 構成としては、まずテロリズムを定義する試みから始まる。そして、テロリズムの起源やこれまでの歴史の中でのテロリズムを具体的な事例とともに紹介し、その特徴や意味、そしてその変化について述べる。そして最後に現在最も注目を集める国際テロや宗教テロリズムと、こうしたテロに対する民主的な対策について述べている。 テロとはラベリングであり、ある社会で悪であるとみなされているものが、別の社会では自由のための闘争と見られているようなケースもあり、必ずしも絶対的な悪であるとも言えない場合もある、という考え方はアメリカとの結びつきが強い日本に住む日本人にとっては、あまり考えることのない視点かもしれないが、重要な視点であると感じた。 また、これまでの歴史上では、政治的な意味の革命的なテロがある社会の内部において起こるような傾向があったが、そうした政治的なテロから、思想的な宗教的なものへと質的な変容が起こり、その結果テロの範囲も一つの国家や社会の内部から、国際テロへと変容をとげていることなど、現代社会を生きるものにとっては知っておくべき事実であろう。 今後、テロリズムがどのように変容していくのか、継続的な注意を払って行きたい。

速読多読 第三弾 職業としての学問

速読多読 第三弾 職業としての学問 ヴェーバー 2016年12月21日 読了時間 45分 非常に短い本であったにもかかわらず、かなり長い時間をかけてしまいました。しかし、短いなりに多くの内容を含む本であったので、とても実りのある45分になりました。ヴェーバーという人の賢さがうかがえます。 内容 この本の内容は、第一次世界大戦が間もなく終わりを迎えようとする時代、敗戦が濃厚となったドイツにおいて行われた講演において語られたことをまとめている。 この講演においてヴェーバーは学問探求の姿勢について次のことを述べている。 まず、専門化について。 ヴェーバーによれば、学問は高度に専門化が進んでおり、そうした中で学問を職業とするものは専門外のことに対してわき目を振ることなく、自分の問題意識に没頭すべきであるとする。学問を職業するものとして個性を発揮するためには、個々人の持つ個性によってではなく、自分が取り組むべき仕事に仕えることによってである。 また、主知主義的合理化という概念もこの講演において重要なポイントである。 主知主義的合理化というのは、いわば世界の脱呪術化である。これは、世界は知性によって予測し、理解することが可能であり、神聖なものや神秘的なモノの力に頼らねば説明ができないようなことは存在しないという姿勢である。 最後に、価値自由という考え方もヴェーバーはこの講演において触れている。 学問の意味として、前提とされていることがある。それは、学問によって世界がどうあるべきか、という姿が明らかになるという考えであり、学問は普遍的な心理に辿り着くための道である、というような考え方である。しかし、ヴェーバーによれば、それらの学問が普遍的な価値あるものへと至る道程であるというような考えを否定し、学問の先にあるものは、「そうあるべきという状態」を示すような価値である、という考えを学問探求者は持つべきではないとする。それは、価値というものは常に相対的であるため、学問の妥当性を示す根拠にそうした価値判断が含まれないようにするためである。 価値自由とは、上記のように、事実(あるもの)と価値(あるべきもの)を区別すべきであるという考え方である。 ヴェーバーのように考えたとき(学問が一般的に前提としている知の普遍的な価値を認めない時)、学問の価値はどこにある...

速読多読 第二弾 社会学的方法の基準

速読多読 第二弾 社会学的方法の基準 デュルケム 2016年12月20日 読了時間 4時間 今日はデュルケム著、社会学的方法の基準を読みました。250ページ程度の本で長くはないので、4時間は時間をかけすぎで、もはや速読といえるのか、という感じです。ですがめげずに毎日挑戦していこうと思います。 内容について 社会学的方法の基準は、デュルケムが社会的諸事実の研究に適用する方法の特色を明らかにし、またそれを規定するとの目的のもと著されたものである。著書においてデュルケムは社会的事実とは何か、社会的事実をどのように扱うべきであるか、社会学における説明とはどのような様式で行われるべきであるかなどについて触れている。 まず、社会的事実というものは、社会がもつ傾向性や特徴であり、社会学が研究対象とするものである。(社会の持つそうした特徴は個人にとっては外的で、個人の行動に圧力を加える。)これは、社会の中の個々が持つ特徴や傾向性から独立したもので、言い換えれば、社会は個々の人間の結合によって成立しているが、社会はその結合の結果個々人から独立した社会に特有の性質を持つということである。そのため、社会学的な説明は個々人の傾向性を説明することとは異なり、よって社会学的説明は心理学的説明とは異なる。つまり、心理学と社会学は不連続の学問領域なのだ。両者の関係は、人間を構成している物質についての無機化学的な説明としての化学と有機体としての人間を説明する心理学との関係に似ている。 そして、デュルケムは、そうした社会的事実をものを扱うように扱うことが重要であるという。社会学はこれまで、観念から出発し、観念に関する内省的な研究(哲学的な研究、哲学の一部としての社会学の研究)が成される傾向にあった。それに対してデュルケムは、社会的事実を(観察する主体にとって)外在的なものとして捉え、内省に依るのではなく観察によって科学的に研究していくことが重要であると述べたのである。 この一冊は、デュルケムによる、哲学と心理学からの社会学の独立宣言であるように思えた。

速読多読 第一弾 精神分析入門(上)

速読多読 第一弾 フロイト著 精神分析入門(上) 2016年12月19日 読了時間 3時間 まだまだ速読とはいえないくらい時間がかかる上に、内容もほとんどわかっていない現状があるんですが、読んだことは読んだので自分が読んで理解をしたことのみを書きます。 フロイト言えば、精神分析の創始者として有名で、心理学を学ぶ上では必ず勉強しますし、心理学だけでなく哲学やそのほかにも幅広い学問分野に影響を与えています。 そのフロイトが精神分析について、概論的な講義を行った内容をまとめたものがこの著書になります。なので、言葉遣いとしては講義の内容を文字に起こしたようなものなので語りかけるような語調になっていて非常にわかりやすいです。 僕が読んだのはそのすべてではなくて、上巻の錯誤行為と夢についての二編のみです。 その内容を簡単にまとめると、言い間違えや聞き間違えなどの錯誤行為も夢も無意味なものではなく、無意識の領域にある自己が形を変えて表現されている、意味を持ったものであるというこである。 まず、錯誤行為は無意識で思っていることが錯誤行為という形をとって表現されてしまう。また、夢においては錯誤行為よりもすこしだけ複雑であり、無意識に感じていることが直接的に表現されるわけではない。夢は、無意識が抱える願望が倫理的な基準や社会的な規範などに基づいて受け入れ可能な形に変更を加えられた後に夢として現れているのだ。 ここにはフロイトの精神分析理論として知られる、イド(無意識)、自我、超自我の関係を読み取ることができる。 特に、フロイトらしい点としては、無意識の表象が夢として表現される背景にある力として、リビドーをかなり重要視している点である。 書いてみたのはいいですが、書いてみると早く読むと理解がものすごく浅いことが明らかになりますね!笑 それからもこんな感じの短い投稿が続きますがご容赦ください。

冬休みの挑戦、速読多読!

冬休みの挑戦!!!速読多読!!!  2016年12月19日 先日大学の学期が終了し、自動的に冬休みが始まりました。 この冬休みは留学から帰ってきたばかりということもあり、地元も大学に通う友人とは予定があまり合わず、時間を持て余していて感じがあります。 そこで、何か目標をもって一日一日を過ごそうと思い、決めたことが積読書(これまでかったものの積読をしてしまっている本たち)をなるべく読み切るということでした。 本当に100冊くらいの積読書があるのですべてを読みきることはないとは思うのですが、なるべくたくさんの読了に挑戦していきたいと思います。 ただ、普通に読んでもめっちゃ時間がかかるだけなので、留学中から挑戦している速読の練習にもあてようかと思います。速読はメソッドがわかっても実践を通して鍛えなければ習得ができないものだということに気づかされる毎日なので、この機会にがっつり挑戦しようと思います。 ということで、ここまでの内容をまとめると ”この冬休みは速読でなるべくたくさんの本を読み切るぞ!!” ということになります。 そして、速読をした著書に関してはそのレビューというか感想を遂次まとめてここに上げていこうと思います。 冊数的には一日2冊くらい読めればいいなと思います。 がんばろう!!!

”価値のあるもの”について

最近、いろいろな映画を近しい友人と見る機会が多い。 そのうちの一つとして、自分自身がものすごくひきつけられ、ものすごく傾倒している作品がエヴァンゲリオンだ。 この作品は、アニメーションが原作で、それに付随する形で漫画やゲームなど様々な媒体で描かれており、興味深いのはそのそれぞれで内容が微妙に、ゲームなどに至っては全くもって異なっているということだ。 現在も、前四部作の映画作品のうちの第三作品目までが劇場公開をされている。 四作目が非常に楽しみなのと同時に、個人的にはオリジナルの中のオリジナルである、テレビアニメーションシリーズを鑑賞していないので、時間を見つけてそちらを楽しみたいところではある。 エヴァンゲリオンは、媒体としての多様性とそれぞれの内容の非統一性を一度忘れて、その作品としての基本的な設定のみを考えても非常に複雑でわかりにくい。 個人的には、なんとなく細かく見ていくと矛盾に思えるような点や、腑に落ちない点はたくさん見つかるのではないかと思っている。 ここまで、ものすごく没頭している割には、作品についてポジティブな情報がほとんどない。それでも、なぜだろう、やっぱりどこかとても惹きつけられてしまう。 なんとも不思議な作品だ。 ただ、この不思議は別にエヴァンゲリオンに限ったことじゃない。 これまでいろいろな作品を友人と見てきたわけだが、作品を細かく見ていくと納得できないような部分や、矛盾点はしばしば見つかるし、時には陳腐な内容というか、特別その作品に限って取り立てて驚くべき点が見つからないこともある。 しかし、それでもなんとなく、この作品にはやっぱり価値があるんじゃないか、と感じさせる魔力のようなものがある。(ような気がする) なぜなんだろうか。 少し前に、構築主義という言葉を、社会学の勉強をしている時に勉強した。 この言葉の意味は、社会問題などは、”問題にされる”ことを通して初めて”問題”となる、という立場である。この立場に立って社会問題を考えるとき、その社会問題都やばれるそのことがらそれ自体に問題とされる要素が本質的に存在しているとは考えず、その問題が問題と定義される背景にはどのような力が働いているのか、言い換えれば、どのような社会的状況がその問題を問題にしているのか、に注目することになる。 自分はこの構築...

ひとりごと

ひとりごと これから先のことを思うと、不安になる。 今まで、わかっていたつもりでいたことがここ数日、気味の悪い現実味をもって訪れる。 人生の終わり、死んでしまうということ。 生きているものはいつかみんな死んでしまうし、そんなことは誰だって知っている。 きっと小学生にだって、幼稚園児だって、アリやガやゴキブリが動かなくなるのを見る時には、それを理解していると思う。 だから、自分もそんな当たり前のことはわかってた。と、思ってた。 でも、たぶんわかってなかったし、今もきっとわかってない。 とにかく、今は終わりが怖い。 気が付けばその瞬間を迎えているんじゃないか。 ずっと先の出来事のように思っていたけど、実はすぐにその瞬間を迎えてしまうんじゃないか。 それがすごく怖い。 それから、人生は一度きり。 それも当たり前。 きっとそれもみんな知ってる。 でも、その当たり前のことが自分をもっともっと不安にする。 帰ってこない昨日、容赦なくやってくる明日。 ただただどうすればいいのかわからない今日。 やらなきゃいけないことを、きっとそつなくこなしていれば、きっと不自由なく、あたりさわりのない人生が待っている。 あたりさわりのない人生。 それは、自分がいない人生のことだ。 いつまでも自分で選ばない人生。 ただただ流れるままに流れていく人生。 やらなきゃならない、と誰かが言っていることをとりあえずやる。 受験、進学、就職、労働。 とりあえず、みんなそうするからそうする。 そのままずっと流されて、気が付いたら終わりまで流されている。 もしも終わりの瞬間に、自分のこれまでって何だったんだろうか、と尋ねられたら。 わからない、ただ、流れていただけな気がするから。 そんな風に答えてしまいそうな人生。 少なくとも、今自分が終わりを迎えて、誰かに同じように尋ねられたら、そう答える。 どうしようもなく、情けない人生。 そんな人生は嫌だと心はそう叫んでいる気がする。 中学生のころ、高校生の頃、大学生になりたてのころ。 心はもっと強かった。そんな人生は嫌だと叫ぶ声は、体中に鳴り響いていた。 少なくとも、自分が流されているだけ...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート) ⑨たぶん最終回

デュルケム著 自殺論 要約 ⑨ 第三編 社会現象一般としての自殺について (前回の投稿からこそっと第三編に入っています) 第二章 自殺と他の社会現象との関係 この章では、社会現象としての自殺が、社会におけるその他の社会現象とどのように関わっているかについて書かれている。 まずは、自殺が歴史上の各社会において道徳の許容する行為とされていたか、禁止されている行為とされていたかを明らかにする。そして道徳からの自殺への評価の根拠には何があったのか、その根拠は今日の社会における自殺の道徳的評価の中にも認められるものであるのか、を考える。 未開社会から今日までの間、誤解を恐れずに言えば、自殺を道徳的に禁止する動きは歴史の発展とともに強まる傾向にある。この傾向は、一般的に自殺が非難される理由として考えられる、”自殺者は社会への債務を履行せずにドロップアウトする不良債権であるから”という考えに反する。なぜなら、もしも自殺がその理由において道徳的に忌避な目を向けられるのであるとすれば、社会集団への個人の結合が強い集団本位主義的な社会、即ち未開社会において自殺を禁止する動きが最大にならなければならない。しかし、現実はその真逆であり、個性が社会に対して自立した価値を持つようになる自己本位主義の社会において、自殺への道徳的禁止の圧力は最大になるのである。 なぜ、このような傾向を持つのであろうか。 それは、社会が自己本位主義的に変化する中で、個人の人格が何にもまして尊重されるような価値を持つようになったからである。 個人の人格は、様々な宗教において神が持っていたような超越的な価値と神聖性を付与されるようになった。つまり、人格は宗教的な価値を持つものになったのである。そして、その宗教的価値を傷つける行為であるために、自殺に対する道徳的な禁止の圧力は、自己本位主義社会の発展とともに大きくなっているのである。 しかし、自己本位主義の社会とは、同時に科学精神に象徴されるような社会でもあり、科学精神はその反省的な批判精神は宗教の神秘性を認めない。にもかかわらずなぜ、人格の超越的な価値がそれでもなお認められているのであろうか。 これには、個人に外的な社会という存在による作用が関わっている。 社会において、絶対的な力を持つのは社会の集合的な力であり、個人は無に等しい。それ...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑧

デュルケム著 自殺論 要約 ⑧  第二編 第六章 種々の自殺タイプの個人的形態 この章では、これまでの章において明らかにされた三つの異なる自殺類型が、それぞれどのような個人的な形態を引き出すのであろうか、ということについて考察する。つまり、それぞれの自殺タイプに起因する自殺において、個々の自殺には形態的にどのような特徴があるのか(どのような性格を個々の自殺が帯びているか)、その関係を演繹的に分析する。 自己本位的自殺 自己本位主義を原因とする自殺(自己本位的自殺)においては、自殺の純粋な基本的性格として無気力であることが挙げられる。加えて、同じ自殺タイプにおける二次的な変種には、自己満足を伴った物憂げな憂鬱、そして懐疑者の悟りきった冷静さがある。 集団本位自殺 同様に、集団本位主義を原因とする自殺(集団本位自殺)においては、基本的性格として情熱的、あるいは自発的な力があり、その二次的な変種として、平静な義務感や神秘的な霊感を伴うこと、また、落ち着き払った勇気を伴うことが挙げられる。 アノミー的自殺 基本的な自殺傾向の最後の一つ、アノミーを原因とする自殺(アノミー的自殺)においては、基本的性格として焦燥や嫌悪がある。また、その二次的な変種は、生一般に対する荒々しい非難やある特定の人物に対する荒々しい非難が挙げられる。 これらが、純粋な基本的自殺タイプと個々の自殺の形態的な関係であるが、これらに加えて、複数の自殺タイプの混合的な自殺タイプに特徴的な形態的特徴が存在する。混合タイプは次の三つがある。 自己本位的・アノミー的自殺 自己本位主義とアノミー状態の双方を原因とする自殺タイプで、個々の自殺の形態的特徴 は動揺と無気力、活動と夢想の混交がある。 集団本位的・アノミー的自殺 集団本位主義とアノミー状態の双方を原因とする自殺タイプであり、形態的特徴は怒りの沸騰である。 自己本位的・集団本位的自殺 自己本位主義と集団本位主義の双方を原因とする自殺タイプであり、形態的特徴はある種の道徳的堅固さによってやわらげられた憂鬱である。 最後に、デュルケムは自殺類型と自殺の手段の間に何らかの関係があるのか、という点に言及する。デュルケムによれば、自殺の原因も自殺の手段も共に社会的に決定される性格のものであるものの、双方を決定する社...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑦

デュルケム著 自殺論 要約 ⑦ 第二編 第五章 アノミー的自殺 この章では、これまで見てきた社会の側面に加えて、社会が持っている個人への規制作用が自殺傾向に及ぼす影響について分析を加える。 まずデュルケムは、経済危機の時期において、自殺傾向が上昇することを指摘する。この事実に対する説明として広く考えられているのは、危機が与える経済危機によって生活が困窮することが原因であるという説明である。しかし、デュルケムはその説明に対し、貧困は自殺率に影響を及ぼさないことや、人々の生活水準に対してポジティブな影響を及ぼすような危機においても同じく自殺率が上昇することを示し、その通説を退ける。 そして、その説明に代えて、デュルケムが指摘するのは、社会が持つ規制作用の影響であった。 規制作用と自殺の関係を示すために、人間の欲求について触れる必要がある。 動物の欲求が生命活動を維持するためだけの物理的なものによって縛られているのに対し、人間の欲求は物理的なものだけでなく、それ以上に精神的なものが重要な位置を占めている。人間は精神の持つ反省作用によって、たとえ物理的な欲求が満たされても、常に現状を越える状態があること知っている。それ故に、その欲求は満たされた瞬間その上の状態を欲求しており、本質的には際限なく拡大されていく。言い換えれば、人間の欲求は本質的に無限であり、決して満たされることはないのである。 故に、欲求を満たすための活動にも終わりはなく、それは永遠に前進のない試みに等しい。永遠に遠くにある目的を目指す探求は、前進がないことと等しく、その終わりのない探求は苦悩を生むばかりである。よって、人間はその欲求に何らかの制限を設けることなしには、苦悩に陥るばかりなのだ。しかし、人間はその制限を自分自身の中に発見することはできない。その制限を与えられる存在は社会のみなのである。 多くの社会においては、社会は道徳の規律というような形で個人の欲求に制限や限界を与え、それを規制している。ある階級の人間はこれ以上を望んではならない、という尺度があり、それらの尺度は人々によって承認されることによって規制作用を発揮しているのである。 社会の危機や混乱は、生活の諸条件を変えてしまうために、これまで欲求を規制してきた尺度(ある階級はこれ以上を望んではならない、という道徳的尺度・規...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑥

デュルケム著 自殺論 要約 ⑥ 第二編 第四章 集団本位的自殺 これまでの二章では、社会の統合性の弱さによる個人化、個性化が自殺に帰結するという自己本位的自殺について述べられてきた。しかし、この章では、自己本位自殺と全く逆の理由から生じる自殺の類型として、集団本位的自殺について述べる。 集団本位的自殺とは、集団本位主義の社会―自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、即ち所属している集団におかれているような状態―において起こりやすい自殺類型であり。言い換えれば、集団の統合力が強く、そのために個人の人格が無(無意味)に等しく、よって個人が社会の集合的な要求から守られることがないような社会において生じ易い自殺である。 この集団本位的自殺には三つの変種が存在している。 ①義務的集団本位的自殺 自殺しなければ社会的に排除もしくは罰せられるような社会的圧力による、慣例として実質的な義務の様相を帯びた自殺。 例:首長の死に伴う臣下や家来の自殺、など ②随意的集団本位的自殺 自ら死を選ぶことが美徳であるような(そうしない場合不道徳と見られるような)社会において、そうした道徳に従って自ら死を選ぶような自殺。こうした道徳は、没個性が社会的に訓練されていること前提であるから、集団本位主義社会に特有の自殺である。 ③激しい集団本位的自殺 しばしば集団本位主義的な宗教において見られるような自殺。これまでの二つが、ある行動が社会において持つ道徳的な意味の結果として自殺が選択されるものであったのに対し、この第三の変種は死ぬことそれ自体が、ほかの物事との関係を抜きにして美徳であるとされる。たとえば、個々の生命に実在や意味はなく、個々の生命の外側にあるようなより高次の生命に合一することにのみ意味があるというように考える宗教集団における自殺などがそうである。 義務的集団本位的自殺と、随意的集団本位的自殺は本質的には大きな相違はなく、そのため両者の境界を明確にすることはできない。 一般的に集団本位的自殺は未開社会において多くみられる自殺類型であり、個人の人格が認められ、個人の生きる権利が認められている文明社会においては、その傾向は弱くなっていく。(しかし、文明社会においても、軍隊においては、その集団本位的自殺が比較的多く見られる。...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑤

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑤ 第二編 第三章 自己本位的自殺(つづき) この章では前章で明らかになった、宗教社会における統合性、社会の集合性の強度と自殺の関係が、その他の社会集団においても言えるのかどうか、家族社会、政治社会について考える。 家族社会について 一般的な傾向として、既婚者の自殺率は未婚者の自殺率と比べて、抑制傾向にある。 そのうえで、家族関係における二つの異なる関係に注目する。 一つは、婚姻関係―結婚に依る男女の結合関係―であり、もう一つは、家族関係―子どもの存在など世代間を繋ぐような関係―である。 両者の自殺率に及ぼす影響としては、婚姻関係は自殺率に対して、ある程度の抑制傾向を持っていることは明らかであるが、その力としては決して大きくはない。特に婚姻関係がもたらす影響は、性別によってその大きさが異なる。 一方で家族関係は、婚姻関係に比べると、比較的強い自殺率抑制の傾向をもっている。 その傾向性としては、家族集団が大きくなり、集団内部でのやり取りが活発になればなるほど、自殺の抑制傾向としては大きくなることが言える。 つまり、宗教社会における社会の統合性と自殺傾向の関係と同様の関係が家族社会においても見られる、ということになる。 政治社会について 政治社会についてのデータ分析で言えることは、政治社会に変革が起こる際、その変革が国民の感情を大きく左右するような類のものであれば、その社会における自殺率は抑制されるということである。 これは、変革によって人々が社会的な潮流の中に統合されていく、その統合性の強さに応じて、自殺率が変化するということである。 よって政治社会においても、宗教社会の分析で見られたような、集団の統合性の強さと自殺率の関係が成立しているということである。 まとめ 宗教社会においても、家族社会においても、そして政治社会においても、社会の統合性と自殺率は反比例の関係があるということが一般的な帰結としてわかった。このことをさらに一般化すると次のように言える。 社会における統合性の強さは、その社会における自殺率と反比例する。 即ち、社会の統合性が弱まり、個人主義が強まるにしたがって自殺傾向は大きくなるということである。 社会的な自我からのこの逸脱と、それを犠牲にして個人的自我が過...

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)④

デュルケム著 自殺論 要約 第二編 第二章 自己本位的自殺 この章においてデュルケムは宗教の違いによる自殺傾向の違いを分析する。 目をつけたのは、プロテスタントとカトリックの自殺傾向の違いだった。 カトリックに較べて、一般的に言えることは、プロテスタントの社会においては、自殺率が明らかに低いということであった。 その理由をデュルケムは、プロテスタント社会においては、伝統による社会の束縛や、それによる社会の伝統的な凝集性や緊密性が小さいためであると結論付けた。 その結論を基礎に、デュルケムは次に知識への欲求の高さと自殺の関係についての分析を行う。 その論理的な繋がりはこうである。 教育や知識(啓かれた意識―科学)とは、伝統が力を失った社会において、人々が伝統に代わるようなものとしてよりどころとするところのものである。 もしも、デュルケムの結論の通り、伝統の揺らぎが自殺率に影響を及ぼすのであれば、伝統の揺らぎの後にやってくる知識への欲求の強さは、宗教が示したもの同様に、自殺率との関連が見られるはずである。 そうした仮定に基づいた検証の末、デュルケムは教育と自殺の関係について、自身の仮定が正しかった事を証明する。教育と自殺には一定の関係が見られたのである。 この章における検証から導かれる二つの結論は、 ①社会の伝統的な凝集性や緊密性の喪失が自殺を増加させるということ ②宗教が自殺を抑制することが出来た理由は、宗教には人々の集合的生活を育み、社会内部の緊密性や凝集性を強める力があるからであるということ の二点である。

デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)③

デュルケム著 自殺論 要約 第二編 社会的原因と社会的タイプ 第一章 社会的原因と社会的タイプを決定する方法 第一編において、社会における自殺率が、非社会的な原因ではないということを示したデュルケムは、第二編において、自殺率は社会的原因に根差すものでなければならないと言う姿勢をより強固に示す。 第一章では、そのうえで、社会的原因の諸タイプを決定するに辺り、その方法について言及する。まず、デュルケムは個々の自殺のケースから特徴を分類し、その分類に応じた原因を見いだす帰納的な方法を、資料がないことによって退ける。そのため、デュルケムは統計的なデータに基づいて諸原因を先に見いだす演繹的な方法を取ることにする。 その統計的な探り形も、ここのケースの事例から始めるのではなく、社会的環境(宗派、家族、政治社会、職業集団など)の状態がどうなっているか、ということと社会における自殺の統計との関連性の分析から、その考察を始める。

デュルケム 自殺論 要約(というより読書ノート)②

デュルケム著 自殺論 要約(読書ノート)② 第一編 非社会的要因 第二章 自殺と正常な心理状態―人種、遺伝 この章では、自殺の非社会的な要因であり、かつ、正常な心理状態において考えられる要因について、その自殺傾向との関係を分析しています。 まず、人種と自殺傾向についての分析。 デュルケムは、人種の定義とは何か、という議論からこの章をはじめる。 そして、そこにおいて、人種というものはそもそも定義が明確なものではなく、それ故にそのような曖昧な枠組みしか持たない概念と、自殺傾向という概念の関係性を明らかにしようというその試み自体、成立するか疑問を呈している。 その前提の下、先行研究においてある程度の正当性を得ている、モルセッリの人種の四分型を基本として、人種と自殺傾向の関係を吟味するが、人種と自殺傾向の間に統計的な相関は見いだせず、両者の関係を否定している。 次に、デュルケムは人種と自殺の関係を述べる理論が、暗黙のうちに前提としている、遺伝と自殺の関係を吟味している。 まず、自殺と遺伝の関係を指示する研究内容として、いくつかの精神病患者の研究を紹介するものの、そこで示される遺伝の効果は、自殺傾向の遺伝ではなく、自殺に帰結する可能性がある(必ず自殺と結びつくわけではない)精神症状や精神異常が遺伝よって受け継がれることの可能性に過ぎず、遺伝が自殺傾向と結びついているということを示すには十分ではないとする。 加えて、一見して自殺が遺伝するように見えるケースは、自殺が持つ強迫観念のような伝染力に依るものである可能性を示す。(デュルケム曰く、この議論は後の章で深めるらしい。) ここまでの議論に加えて、自殺の遺伝を否定するような更なる統計的な情報をデュルケムは提示する。 まずは、自殺と性差の関係。もしも、自殺が遺伝的なものであるのならば、性別によってその傾向において差は生じ得ないことになるが、実際の統計的なデータでは、男子の自殺数が、女子の自殺数を遥かに上回っている。 加えて、もしも、自殺が遺伝であるのであれば、その遺伝の傾向は自殺が精神的にも肉体的にも可能になる年齢、即ち、体の成熟が自殺に十分なレベルに達した時点において一挙に発現し始めるはずであろう。しかし、実際の統計はそれと相反する内容を示す。自殺に十分な成熟は子どもの時点ですでに成し遂げられる...

デュルケム 自殺論 要約(というか読書ノート)

今日からぼちぼちデュルケムも読んでいきたいと思います。 読解力が低いので、要約(読書ノート)の質もあまり正確なものではないと思いますが、まとめていきます! このノートは、読了しなおしたり、内容について新たな理解や、自分の勘違いを見つけるごとに更新していこうと思いますので、僕は死んでしまうまで、つまり今から大体90年後くらいまでは、暫定的なものにすぎません!笑 デュルケム自殺論 第一編 非社会的要因 第一章 自殺と精神病理的状態 第一編で、デュルケムは自殺が非社会的なものかどうかを検証すべく、自殺についてその原因として可能的な要因について検証していく。 まず、第一章では、精神病理的状態をその最初の検証対象とする。 まず、自殺が精神病理であるとした考え方として二通りを上げる。 ・自殺それ自体がある固有の精神病理的特徴によって引き起こされているというもの ・自殺は特定の一つの精神的病ではなく複数の複合的な精神的病理によって起こるものである、とするもの デュルケムはまず、後者を言説としての厳密性や根拠にかけるとして否定する。 前者について、もしも自殺に必ず帰結するような精神病理的症状が存在するとすれば、精神病理学的において”偏執狂”とよばれるものであろうとデュルケムは仮定する。 いわゆる偏執狂とは、ある特定の行為に対して不条理な欲望を突発的に抱くこと以外を除いては正常な状態のことである。 しかし、この偏執狂というものは実際に存在するのかということについては如何なる積極的な証拠はない。即ちそれがあることもないこともどちらも証明できないのである。 また、一般的に偏執狂として認識されているものも、もっと一般的な精神異常状況の一つの表れとしてにすぎず、ある特殊な傾向に対するもののみととらえることはできない。つまり自殺を突発的な衝動で行ってしまう偏執狂のような人間がいたとしても、その自殺は、自殺と特定に結び付いた自殺狂というようなものではなく、精神異常を持った人間が持つ異常な傾向性がたまたま自殺に方向づけられた結果に過ぎないのである。 このほかにも精神的な病理としての自殺が考えられ得るケースはありうるが、どの形の自殺においても、自殺を恣意的に病理として定義することに依って病理と主張するのであり、客観的な病理性が認められるわけではない。 よって...

徒然日記 ゆる~く行きます 2016年10月19日

徒然日記 10月19日 今日も平日です。何かをまとめて書くには一日に学んだことが一貫性のあるようなものではないので、今日も徒然ととりとめもなく、今日したことをゆる~く書いていこうと思います。 まず、今日も小説の書き方についての本を読みました。1章だけさらっと読みました。 第1章は、アイディアと構成ということで、構成パターンの基本的な流れ、構成の発想につながる日常的習慣、そして、登場人物の描き方やに登場人物に求められる要素などを具体的な例を示しながら教えてくれました。著者の方は、忠臣蔵がすきすぎて、第一章の半分くらいは他の作品と比較して忠臣蔵がいかに優れているかについて述べていました。でも、著者の示す忠臣蔵の良さというものは、象徴の効果や小説ならではの余計な描写の効果などなど納得のいくものばかりで、忠臣蔵テーマにした様々な作品に触れてみたいと思わせてくれました。 この章で自分としてぐっと来たのは、小説は人間を描くものであるという、著者なりの小説の根本への言及でした。小説はあくまでも現実と似ているようで現実ではないもう一つの世界への招待状です。なので、そこには完全無欠な人間を描くこともできます。どこを切ってもポジティブな情報しか出てこないような人間を描くことだってできるわけです。でも、そんな小説は決して面白くはならないと、著者は言います。「小説は書くのも読むのも人間である」という著者の言葉にその理由は凝縮されているようにも思います。小説を書くという作業がが人間を描く作業であるというのは、ほめられるような一面があれば、不完全さを感じさせる一面もある、また、成熟と同時に青さを残しているようなそんな生き生きとして存在としての人間を描く作業であるということです。話の筋道を描くときも、登場人物に命を与えるときも、その根本を忘れてはならないということです。 ここで終わればいいのですが、小説は現実と似ている現実ではない世界を描くことである説くことに少し加えていこうと思います。「小説は現実より奇なり」という言葉があります。意味は読んで字のごとくです。すなわち、小説は現実をはみ出ていいし、むしろはみ出なければ面白くはない、ということです。シンプルな言葉ですが、これも小説の根本の一つなんです。 たとえば、登場人物を描く作業があります。そして、そうして描かれる登場人物の中には...

徒然日記 ゆる~くいきます 2016年10月18日

徒然日記 今日は今日考えたことや今日勉強したことをさら~っと書きます。 最近は、少し前に書いたようにマイブームというか、日課が速読で、暇があれば常に本を読んで生きています。複数冊を同時に読むのがよいということなので、今は同時に5冊か6冊ぐらいを適当に読んでいます。 速読なのであまり時間をかけないように読むのですが、最近は本気で大学院に進学することを意識しているので、学部を明確に決定するべく、その候補の一つである教育社会学の教科書には少し時間をかけてじっくり読んでしまいました。 読んだテーマは”学校に行かない子ども”というものだったのですが、一般的に不登校と呼ばれる問題と似ていますが、それ以上にはるかに広くて、捉え方考え方によっては教育の核心的な問題(なぜ学校に行くのか、誰が学校に行くことを求められているのか、学校に行かないということはどのように語られているか、学校に行かないことは何を意味するかなどなど)まで考察を深めていくきっかけとなるような問題なのだということを知りました。 それから、社会問題に対する本質主義的なアプローチと構築主義的なアプローチのそれぞれの定義や互いの相違、それから長所や短所などの特徴を知りました。同じ問題でも違うアプローチがあり、用いる方法に応じて全く違く解決策や結論を導くことが出来るという事実は、デューイが言っていたように、二元的な対立の認識論でものを見るのではなく、様々な視点から複眼的にものを見ることができることの重要性を改めて教えてもらった気がします。 後、最近小説ってどうやって書くんだろうということが気になって、今日は小説の書き方を少しだけ勉強しました。同じような感情描写でも表層的なものから深層的なものまで、書き方一つでこんなにも違うものなのか、ということに驚きました。あと、小説は事実を描写するのではなくて、小説の雰囲気を作る表現が重要であるという文章は、個人的にすごくグっと来た感じがします。小説を読む時は、どういった表現によってこの小説は独特の雰囲気を醸しだしているのだろうかと注意をして読めたら、小説の深味は一層増すのだろうなと思います。 それから、今日は少しだけ、すっごく適当ですっごい軽い文化人類学の親書を読んだのですが、人は動物が嫌いなんですって。動物が嫌いだから、人間社会に介入して...

民主主義と教育 ⑧(第21章~第26章)

民主主義と教育 ⑧ 第21章~第26章 第二十一章 自然科と社会科:自然主義と人文主義 哲学における人間と自然の二元論は自然科学と人文科学への学科の分裂に投影され、後者を過去の文献的記録に過ぎないようなものにしてしまう傾向がある。近代における自然に関する知識を人間の福利に役立てようという試みであった近代科学の発展は、自然と人間の間の関連の回復を予告したが、近代科学の応用は人々一般の利益ではなく、一部の階級的な利益に利用され(つまり、人間の福利のために十分に利用されることはなく)、また、科学的学説の基盤的な役割を成した哲学的な理論的表現は、科学を純粋に物質的なものに関する知であるとし、精神的で非物質的なものとしての人間を区別し、そうでなければ、精神を主観的な幻想に過ぎないとするような傾向を生み出し、結果として、自然と人間(人文的なもの)の間の関連を回復するようなものとはならなかった。ここまで、知識の発達や教育的学科構成についてこれまでの諸章で述べてきたことは、自然と人間の分断を克服し、人間に関する事柄の中で自然科学の教材が占める位置を確認するための試みである。 第二十二章 個人と世界 真の個人主義という考えは、習慣や伝統の権威の支配のゆるみから生じたものであるが、社会の信念を修正し変化させる力の発達を意味したのではなく、各個人の心は他のあらゆるものから孤立して完全なものであるという主張として、哲学的な解釈を与えられたのである。そして、この哲学的な解釈は、社会と個人の関係ついての認識上の問題を生じた。それは、完全に孤立した個人的な意識が、社会の利益のために作用することがいかにして可能であるか、という問題であった。この問題に答えるために苦心して作り上げられた哲学は、教育においては直接に大きな影響を及ぼしはしなかったが、それらの基礎に横たわる仮定は教育においても、学習と管理、個性の自由と他者による統制の分裂としてあらわれた。自由ということについて、理解しておかねばならないことは、自由とは外的な制限からの解放を意味するのではなく、精神的な態度のことを示すのであるが、この精神的態度の発達は純粋に精神的な要因に依るのではなく、探検や実験、応用などの十分な行動の余地という外的な要素も不可欠であるということである。伝統的な習慣によって統制される社会で...

民主主義と教育 ⑦ 第15章~第20章

デューイ著 民主主義と教育 ⑦(第15章~第20章) ちょっとペースに焦りを感じたので、今日からは細かいことは気にせずにババっと一気に進めていきます。 第十五章 教育課程における遊びと仕事 生徒の学習の発展の最初の段階は、具体的で実際の社会活動に直接的にかかわる事柄をいかに成すかを学習することに含まれるものであることを前章で知った。このことの教育的な意味は、社会活動の一般的な典型とみなされる作業を教育において利用するということである。そうした典型を教育において利用することで作りだされる、社会活動と学習が重なり合うような環境でこそ、技術や知識の習得が行われるのである。 心理学的には、諸結果に対する配慮を意識的に含んだ活動を仕事といい、活動の延長線上の更なる活動の発展として目標を捉えるような活動を遊びという。言い換えれば、活動それ自体が目標となるような活動が遊びである。つまり、遊びとは活動の無益さを意味するのではなく、目的や結果を活動に対してどのように位置付けているかが問題になる。 社会が複雑化するにつれて、結果が活動から切り離され、重要視される傾向にあり、それとともに、活動は遊びから仕事に転化していく。しかし、文頭で述べたような活動と結びついた教育のように、遊びの態度を大いに含んだ仕事としての学習も重要である。 第十六章 地理および歴史の意義 経験は、その本性として、それ自体の中に最初に意識的に気づかれているものを遥かに超える意味をもっている。そのような関連、即ち大きな意味を意識させると、経験の意味が増すのである。最初どんなに些細に感じられた経験も意味の広がりや経験に気づくことを通して際限なく豊かな意味を持つことが出来るのだ。この発展こそが前章で述べた知識の発展段階の第二段階目であり、直接的な経験と結び付いた知識が情報によってその意味を拡大していく過程である。故に、この経験の発展をもたらすものこそ、他者との健全な通信(コミュニケーション)である。健全な通信には共通な関心が含まれるため、一方は熱心に伝えたがり、一方は熱心にそれを聞きたがるような関係における 通信である。この健全な通信は、相手が文字道理に再現可能となるようにきちんと記憶させるように情報を伝えるような通信とは対照的に異なるのである。 学校教育において、地...

Take a break 人生を2倍長くする方法

人生を2倍長くする方法 僕には大きな悩みがあります。それは、本を読むのがものすごく遅い、ということです。遅いけど、読書は好きで読み始めると終わるまでずっと読んでしまうので、気が付くと一日が終わっていて、人生ってもしかしてすごく短いんじゃないかな、なんて感じてます。 だから、僕自身の最近の目標というか、小さな夢は速読を出来るようになること、です。速読という行動の内実が曖昧であるというのであれば、斎藤孝さんの言葉を借りて「2割を読んで8割を掴む読書」です。今まさに、斎藤孝さんの言葉を引いたわけでありますが、速読が出来るようになりたいという、ささやかな夢に後押しされて、最近何冊か速読のメソッドについての本を読みました。今日までは、民主主義と教育の内容を少しづつまとめてきましたが、今日は本当に時間がないので、最近読んだ速読についての本ついて書こうと思います。 速さ= F(技術, 知識) 少しだけ速読について勉強をしてみて感心したことは、僕が読んだ本にはある程度相互に重複している部分があったということでした。しかも、その重複は速読の小手先の技術的な部分に対する部分ではなくて、技術を支えるもう一つの重要な要素についてでした。今、この文章のサブタイトルに「速さ=F(技術, 知識)」というひとつの関数(意味を成しているか不安ですが)を書きました。この式は速読のメカニズムを現した式で、読む速さは、技術と知識を変数として決定される、という意味です。これについて順を追って説明していきます。 速読における技術 まず、速読にとって技術が重要であるということは、一般的なイメージとして多くの人が共有しているのではないでしょうか。僕自身速読という行為に対するイメージは、理解することが出来る視野の範囲を広くするトレーニングや、目を早く動かすトレーニングなど、どういった特別な技術的な修練の結果として得られるものであり、そういった技術が最も重要なのであろうと考えていました。しかし、この観念は決して正しいものではありませんでした。もちろん、速読において技術は重要なことです。例えば、文字を脳内で音読するような方法で読むのではなく、ひたすら文字を流れるように追うような技術などは、速読をする上で最も重要な技術であり、速読を行う上で欠かせないものであることは事実です。ですが、それでも、そういった...

民主主義と教育 ⑥ (第11章~14章)

デューイ著 民主主義と教育 (第11章から14章) 第十一章 経験と思考 経験の本質 経験とは、能動的要素と受動的要素を含んでいる。言い換えれば、経験とはある状況における主体的な行動と、その行動が環境において引き起こした変化によって影響を受けることの両方を含んでいる。そして、価値ある経験とはその両者の結びつきへの認識を含む野である。これは、いかなる経験においても能動的な側面と受動的な側面の双方を含んではいるものの、その両者の関連を認識していなければ、価値ある経験とは呼べず、逆にその認識が大きければ大きいだけその経験は価値あるものであると呼ぶことが出来るということである。このように、精神的な認識と肉体的な行動は経験の中において関連しており、そのことで初めて価値を生むのであるが、その点を誤解した伝統的な精神と肉体の二元論に基づいて形作られてきた歴史上の教育はその両者の分離のために様々な良くない結果を生じてきたのである。 経験における熟慮 経験における能動的な側面と受動的な側面について、そしてその両者の関係について触れてきた。述べてきたように、両者の関係の認識自体も重要であるが、その両者の関係をどのように認識しているのか、ということも重要なことであり、それについてここからは述べていく。両者の関係をどのように認識していくのかという点においては、その関係の細部まで認識をすることが、熟慮的な経験であり、重要なことである。即ち、ただただランダムにある行動をある結果が偶然生じるまで続けるのではなく、行動と結果の関係を思考的・理知的な分析によって明確にする努力のことである。そうした後者のような熟考的な経験を前者のような経験と分ける特徴として、不完全な状況の試験的解釈、解釈した状況の諸要素の調査、その結果の試験的仮説の精密化、そしてある結果を得るため行動計画がある。熟慮的な経験においては、様々な知識を用いて能動的な行動を計画し行うわけであるが、知識はそうしたプロセスにおいて役目を担う限りにおいて価値を持ち、その有用性こそが知識の価値の尺度である。 第十二章 教育における思考 学校教育の目的を、よい思考の習慣を形成することであるとしたとき、その教育課程は統一的なものになるはずである。その重要性や学校の役割は理論上認められているところでもある。それにも関わらず、情報の...

民主主義と教育 ⑤ 第8章から⒑章

デューイ著 民主主義と教育 ⑤ (第八章から第十章) 第八章 教育の諸目的 この章では、目的という概念の本質的な意味を考察し、それを教育に適応する。 目的の本質 目的とは本質的には、現状の観察から導き出されるあらゆる可能的な結果のうちの、望ましい結果のことであり、そうした意味での目的は、その結果に至るまでの段階的な発展の過程を示唆する。この意味において、目的というものは、外部から与えられるものではなく、あくまでも現状の生命を取り巻く環境の観察に基づき、その生命の内部から生じるものである。また、外部から与えられる目的のように静的なものではなく、現状の変化に応じて目的から手段へと変化し、また新たな目的が生じるような動的なものなのである。即ち、目的とは目的であると同時に手段でもあるのだ。 教育における目的 目的の本質的な分析を教育との関連で語るのであれば、教育における本質的な目的も、外的に行動を規定するようなものではなく、教育を受ける個人の現状の分析に基づいた可能的で望ましい結果のことであり、そこに至る過程を示唆するようなものであるべ気である。その意味において、教育の目的は、「教育者の目的」ではなく、「教育を受ける個人の活動力」の望む目的である。教育の現状におけるマクロで一般的で抽象的な目的は、それ自体として活動の外的な目的されるべきではなく、被教育者個人の活動力や内的な目的との関連を考える指標として認識されるべきなのだ。また、そうした一般的で抽象的な目的は複数が同時に存在するが、それぞれが同一の社会に対する異なった見方を提供しているだけであるから、相互に競争的な見方をせず、並列的で協力的な見方をするのがよい。 第九章 目的としての自然発達と社会的に有為な能力 教育には、教育そのものの目的と呼べるような、即ちその下に教育の活動のすべてを従属させるような絶対的な目的は存在しない。一般的で抽象的な目的も、社会に対する異なった視点からの切り出し方にすぎず、そのため同時に複数が共存できる。抽象的な目的や一般的な目的はこれまでの教育の歴史の中で社会の変化に応じて様々なものが述べられてきたし、そうした目的に応じて教育的な慣行が構成されてきた。しかし、それはそれぞれの社会における強調の問題でしかなく、それらのいずれも絶対的な目的とはなり得ない。 第九章で...

民主主義と教育 ④ 第7章から

デューイ著 民主主義と教育 ④ 第七章から 第七章 教育に関する民主的な考え 社会様式と民主主義の教育 教育は社会の機能であり、それ故に教育の形態は社会の形態に依存する。即ち、ある社会の教育の形態の中には、その社会においての社会生活の様式の価値概念が包含されているのだ。この章では、民主主義という社会体制と結びつく教育の特徴を述べ、同時に、民主義社会以前の社会における教育哲学を紹介し、両者を比較する。 社会生活の様式の価値を判定する基準は、社会で広く共有されている関心が如何に多様であるか、そして、社会の内外における様々な集団間においていかに自由な相互作用があるかである。 望ましい社会とは、両者の基準が最大限に実現されている。そして、それは民主主義社会においても同様である。加えて民主主義社会は、集団や個人の間の相互作用によって社会の制度の柔軟な改変が可能とされている。故に民主主義社会では、広範な関心の共有やそうした関心の個性化を維持しつつ自由な相互作用を促進するような教育が求められることになる。 以下、先に述べた基準に基づいていくつかの歴史上の代表的な教育哲学を考察する。 プラトンの社会観と教育哲学 プラトンは、社会が天性の才能や資質に基づいた階級や序列をもととした秩序によって静的に維持されることが理想であると考えた。そして、教育はもちろんそうした静的な社会秩序を実現するべく整理されるべきとした。こうした社会観は教育によって社会を改変し向上させていくという動的な視点を持てなかった。 個人主義社会観と教育哲学 十八世紀においては、自由主義の思想が社会においてその中心をなしていた。即ち、個人の個性を多様性をそのままに、自然に任せて自由に発展させることこそが理想社会実現の手段と考えていた。この社会観の下では、自然に基づいた自由な教育が叫ばれることとなったが、言い換えれば、理想とする社会の像を描いておらず偶然の出来事を当てにする脆弱な教育観を生じた。 国家主義的社会観と教育哲学 国家主義的な社会観は、行き過ぎた自由主義に基づく社会観の批判の上に生じた。自由主義的な社会観が持ちえず、その結果自然法則によって代替した社会の理想像を国家の理想像によって置き換えたのである。即ち、国家の目標こそが社会の目標であり、国家以上の社会との摩擦を避けられず、社...

民主主義と教育 ③ (第5章~第6章)

民主主義と教育 ③ 第5章~第6章 今回から、少し要約の方法を変えていこうと思う。というのも、これまでの要約は若干冗長になりすぎたということと、誤解を恐れてすぎるあまり細部にこだわり結果として多くの時間を費やすことになってしまった。その反省から、今後は各章なるべく簡潔に、これまで以上に要所要所をまとめていく。 結果として、記事の信頼性や正確性が低下するやもしれませんが、ご了承お願いします。 第五章 準備、開発、形式陶冶 この章は、教育の過程とは連続的な成長の過程であり、成長や教育はそれ自体が目的であるというこれまでの章でデューイが繰り返し述べてきた考えを中心とし、その視点から教育に対する、著者の意見に対立3つの教育観を紹介し、批判する。その3つの教育観が、準備説、発達説、形式陶冶説である。 準備説 準備説とは、教育や成長とは社会の正式な成員となるための準備の過程であるという考え方である。これは、明らかにデューイの考えと反している。すなわち、教育や成長に執着を定め、教育の価値に限界を設けているのである。これに対して、デューイは準備説に基づく教育はいくつかの望ましくない結果を導くとしてこれを批判している。まず、教育があくまでも未来のみのためと考えられるために現在の子どもたちの生と乖離しているために、子どもたちは教育への原動力を失う。それどころか、そのような現在の子どもたちの生に関わりを持たない教育は、むしろ避けられ、躊躇されてしまう。そのため、結果として子どもたちの動機づけに、外的な報酬や懲罰などを用いざるを得なくなってしまう。また、社会の成員としての平均的な基準との比較のみが注目されるため、子どもたちの可能性や独自の能力が無視されてしまうのである。 開発説 もう一つの教育観は、開発説とよばれるものである。この教育観では、教育の過程を発達の課程というものの、発達を連続的な成長過程とは考えずに、潜在能力を一定の方向に向かって、開発していく過程と考える。デューイが前の章で述べているように、成長の方向づけを行うのは、成長している存在であり、成長とは生命の性向を環境との相互作用によって強化してく過程であった。つまり、そこに外的な目標は存在しない。しかし、この開発論は、成長の絶対的な目標を仮定し、その具体的顕れを子どもたちが目指すべき形として外的に規定す...

民主主義と教育 ② 第4章

デューイ著 民主主義と教育 ② (第4章) 第四章 成長としての教育 成長する力 子どもとは、しばしば未成熟という言葉のもとに語られることが多いが、未成熟とはどのような意味であろうか。一般的には、標準的なものであり成熟と呼ばれる状態に至っていない、消極的な方法で語られる。しかし、未成熟とは、「成長する力」即ち、可能力や潜在力のあらわれである。成長することが出来る状態こそが、未成熟ということの意味で或る。 依存性と可塑性 成長する力には2つの構成要素がある。一つは依存性、そしてもう一つが可塑性である。依存性というと、未成熟という言葉と同様に、消極的に語られることが多いわけだが、依存性というのは、同時に社会的素質のことでもある。いうなれば、依存性は、社会参加の素地を成している。その依存性によって社会に参加し、順応し、社会的な能力を身に付けて成長していくことができるのである。 もう一方の可塑性とは一般的に物質に言われるような可塑性とが異なっている。成長の要素としての可塑性は、自身の性向を維持しつつそれを発展させて環境に適応していく能力のことを言うのである。人間には、他の動物に較べて生得的に多くの本能的傾向が或る。言い換えれば、一定の本能的反射によって比較的単純な行動をするのに比べて、人間には多様な反応の可能性がある。よって人間は、そうした多様な性向を環境に適して組み合わせ、制御をする術を学ばねばならない。可塑性とは、情況の変化に応じて、性向の諸要素を変更したり、組み合わせたりして多様な反応を行う能力のことである。 習慣 人間は可塑性を利用し、習慣を獲得する。即ち、ある環境に適応し、習慣によって環境を変更し、自身の目的達成のための手段とするのだ。その意味で習慣とは、可塑性によって得られた、環境を変更する能力である。この過程には、二つの習慣が存在している。一つは、環境に変更を及ぼす習慣。もう一つは、慣れとしての習慣である。人間は環境のすべてを変更するのではない。そのため、一部の変更が行われるその下地となる習慣が存在する。それが、慣れとしての習慣である。広く一般的な環境に”慣れ”、その上で目的達成のために、環境を変更する、それが環境を変更する能力としての習慣の過程である。誤解をしてはならないのは、この習慣の過程には、知性を伴うことである。常に、目的がありその目...

民主主義と教育① (1章から3章)

要約 デューイ 民主主義と教育 第一章から第三章  第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育 教育とは 生命は、不断に生命を維持しようと、活動を繰り返している。同様に、人間という生命体が集合した社会というものを一つの生命と考えた時、社会もまた生命一般と同様に、自己を存続するべく活動をしている。そして、その自己存続のための活動をして教育がある。社会は教育を通して、社会の習慣や価値観や文化を受け継いで存続させていくのである。 教育の過程 教育は、最も広い意味においてはコミュニケーションを通して行われる。(一般的に会話の中で使われるコミュニケーションの意味とは違い、人間の間の相互のやり取りをすべて含むような広い意味でのコミュニケーションというような意味で使われている)基本的な形での教育は社会への参加を通して行われていく。未成熟の存在は、成熟した社会へ参加をし、そこでのコミュニケーションを通じて、社会における人々の共通の目的や価値、習慣を自身のものとしていくのだ。 制度的な教育 以上に述べたもっとも基本的な形での教育は、社会への参加に付随的な形での教育であった。そうした教育に加えて、異なる教育の形が存在する。それが学校教育に代表される。制度化された形での教育である。社会が発展し、複雑化することに応じて、直接参加による付随的な教育によってのみ社会の文化や習慣、目的を存続させることが困難となった文明社会においてこの形の教育はその需要を増した。制度化された教育の中では、言語化された抽象的なことがらの教授が成される。両者は文明社会の存続において車輪の両輪というわけである。しかし、一方で両者の根本的な異質性は社会にとって脅威となりうる。制度的な教育は、言語を中心とし抽象的であるがゆえに、現実の社会生活と乖離が生じやすいのだ。そうした乖離は、文明の複雑化に伴って一層その深みを増している。 第二章 社会の機能としての教育 社会的環境 社会において教育が行われる際、価値化や習慣の教授は、物体を手渡すような直接的な方法で行われるのではなく、社会的環境を通して行われる。社会的環境によって教育がなされるというのは、他者の期待や賛否、態度が人間の態度の形成に影響力を持つということである。それは、動物が何かを学習するように快楽などによって導かれるのではなく、学習者が社会...

はじめの言葉

読者になってくださった皆さんへ おはようございます!こんにちは!こんばんは! さっともです! 読者は想定していませんが、自分のためにブログをはじめました! このブログは、自分が日ごろ考えていることや、読書を踏まえた書評などを自由に気ままに、”徒然と”綴っていこうと思っています。 もしも偶然足を踏み入れることがあったのなら、目を通して、このページを媒介に議論を酌み交わすことができれば幸いかなと思います。 それでは、よろしくお願いします。 2016年9月3日 さっとも