デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート) ⑨たぶん最終回
デュルケム著 自殺論 要約 ⑨
第三編 社会現象一般としての自殺について
(前回の投稿からこそっと第三編に入っています)
第二章 自殺と他の社会現象との関係
この章では、社会現象としての自殺が、社会におけるその他の社会現象とどのように関わっているかについて書かれている。
まずは、自殺が歴史上の各社会において道徳の許容する行為とされていたか、禁止されている行為とされていたかを明らかにする。そして道徳からの自殺への評価の根拠には何があったのか、その根拠は今日の社会における自殺の道徳的評価の中にも認められるものであるのか、を考える。
未開社会から今日までの間、誤解を恐れずに言えば、自殺を道徳的に禁止する動きは歴史の発展とともに強まる傾向にある。この傾向は、一般的に自殺が非難される理由として考えられる、”自殺者は社会への債務を履行せずにドロップアウトする不良債権であるから”という考えに反する。なぜなら、もしも自殺がその理由において道徳的に忌避な目を向けられるのであるとすれば、社会集団への個人の結合が強い集団本位主義的な社会、即ち未開社会において自殺を禁止する動きが最大にならなければならない。しかし、現実はその真逆であり、個性が社会に対して自立した価値を持つようになる自己本位主義の社会において、自殺への道徳的禁止の圧力は最大になるのである。
なぜ、このような傾向を持つのであろうか。
それは、社会が自己本位主義的に変化する中で、個人の人格が何にもまして尊重されるような価値を持つようになったからである。
個人の人格は、様々な宗教において神が持っていたような超越的な価値と神聖性を付与されるようになった。つまり、人格は宗教的な価値を持つものになったのである。そして、その宗教的価値を傷つける行為であるために、自殺に対する道徳的な禁止の圧力は、自己本位主義社会の発展とともに大きくなっているのである。
しかし、自己本位主義の社会とは、同時に科学精神に象徴されるような社会でもあり、科学精神はその反省的な批判精神は宗教の神秘性を認めない。にもかかわらずなぜ、人格の超越的な価値がそれでもなお認められているのであろうか。
これには、個人に外的な社会という存在による作用が関わっている。
社会において、絶対的な力を持つのは社会の集合的な力であり、個人は無に等しい。それは個人を社会に結び付け、社会を作り上げるのがその力であるからである。
自己本位的社会において、その科学的批判精神にも関わらず、人格の絶対的な宗教的価値が認められているのは、その価値が社会の集合的な力のよって与えられているからである。(ちなみに、複雑化する社会においては、すべての人々を普遍的に結びつけることが出来る概念が、すべての人間が人間であるがゆえに持つ”人格”以外に存在しないことが、社会が人格に神聖な価値を付与する理由である。)
つまり、自殺が自己本位主義社会において道徳的に激しく忌避されるのは、それが社会を社会として結びつけ得る唯一の価値概念である、”人格”の価値を脆弱なものにする可能性があり、それ以外に個人を社会に普遍的につなぐ価値を持たない自己本位主義社会においては、社会それ自体の存立を危うくするような類のものであるからである。
道徳との関係を見た後に、デュルケムは自殺と殺人ということなる二つの社会現象の間にささやかれる関係について触れる。自殺と殺人は、同一の心理的原因にもとづいており、その心理的傾向は社会の環境的条件に応じて、自殺か殺人のいずれかに帰結するから、自殺率と殺人率の両者の間には反比例の関係があるというのが、犯罪学の中で言われていた。
しかし、実際はそれぞれの社会現象はともに特定の社会的原因によって引き起こされるものであり、同一の心理的原因に基づくというようなものではない。ただ、自殺を引き起こす三つのタイプの社会的原因(自己本位主義、集団本位主義、アノミー状態のうち、あるものは自殺と同様に殺人の原因でもあり得、あるものは自殺の原因にはなるが殺人の原因にはならず、むしろ抑制する原因になる得る、ということだけである。
言えることは、自殺以外の様々な社会現象も、それがどんなに個人の個人的な気質に深く根差しているように見えても、自殺と同じように個人を越えた原因によって規定さえているということは紛れもなく真実である、ということである。
第三編 第三章 実践的な結論(最終章)
この章では自殺という社会現象に対して社会はどう向き合って行くべきであるか、その方法について考える。
まず、自殺は社会の病理であるのか、そうでないのか、という事をはっきりさせることが重要である。なぜなら、もしも自殺傾向が(譬えそれが道徳的に忌避されるような類のものであったとしても)社会において一般的に生じるような完全に消し去るようなことができないような傾向であるのならば、治療的に何か対策を講じるようなものではなく、その存在を受け入れなければならないものであり、一方で、それが病理であるならば、それに対する対策が講じられなければならないようなものである、ということになるからである。つまり、病理かそうでないかによって、それに対策を講じなければならないか否かが定まるからである。
西欧社会においては、自殺はある程度は一般的な傾向であり、病理ではないことが一般的にデータから言うことが出来る。つまり、西欧社会においては、自殺が一定数発生することは避けようのない自然なことだ、ということであり、ある限度以下に留まる限りにおいて自殺は西欧社会においては存在すべき正当な理由を持つということである。
しかし、とはいえ十九世紀を通じて生じている自殺の甚だしい増加は、一般的な傾向ではなく、克服されるべき病理である。
果たして、病理的な自殺の増加は、いかにして克服されることが出来るであろうか。
刑罰によって威嚇することが有効な手段になるという考えや、教育によって克服できるという考え方があるが、それはどちらも有効な手段ではない。
有効な手段は、その病理的な傾向を引き起こす原因に直接アプローチするものである必要がある。
これまで、自殺を引き起こす社会的な三つの異なる原因について分析してきた。それが、自己本位的自殺、集団本位的自殺、そして、アノミー的自殺であった。この三つの原因の内、集団的自殺は社会の統合性が強い社会において主な原因となる自殺であるから、個人主義の発展とともにあった十九世紀の自殺の急増は集団本位的自殺とは結びつかない。よって、十九世紀における自殺の急増という病理は、アノミー的自殺や自己本位的自殺の増加によるものであるということである。
言い換えれば、社会がその統合性を失い、個人が社会との結びつきをほどかれてしまったことに依るのであり、それはつまり、この病理を克服するためには個人と社会の結びつきを回復するような社会の構造を築き上げることが重要であるということである。
個人と社会の結びつきを再構築する機能を担い得る社会集団(カテゴリー)は政治社会でも、宗教社会でも、家族社会でもあり得ない。その機能を担うのは、同種類のすべての労働者、あるいは同じ職能の仲間が結び付いて形成する職業集団乃至は同業組合である。
職業集団は、その定義上の性質において、構成員間の利害が連携、一体化しているので、社会的な観念や感情を育むのには最高にうってつけの集団である。その上、ほかの度の集団にもまして、三つの利点を有している。常時存在していること、どこにでも存在していること、そして、影響が生活の大部分に渡ること、この三つである。こうした理由から、職業集団が個人を集団に結び付きを再構築する機能を担うにはうってつけなのだ。
述べてきたように、職業集団は単純に社会と個人の結びつきを再構築することで自己本位的自殺に対して抑制的な役割を期待することが出来る。しかもそれに加えて、職業集団は集団内の個人たちの欲求に(経済機能に関しては)規制をかける機能も有しているため、アノミー的自殺に対しても抑制的な役割を期待することが出来るのだ。
また、この職業集団によって対処できない自殺傾向である夫婦アノミーに依る自殺傾向に対しては、婚姻の解消を難しくする社会制度構築と女性の社会活動への参加の促進が重要であるとデュルケムは述べていた。
まとめ
自殺が増えたのは、人々がもはや、正当な欲求がどこでとどまらなければならないかを知らないからであり(アノミー情況的要因)、自らの努力に方向を見出すことができないから(自己本位主義的要因)である。これは即ち、道徳的貧困が原因である。
道徳の問題であるとしたとき、言葉の作用のみを用いた方法で治療し得るとする考えに陥りがちだが、道徳的問題は実は、(個人の意識の上の問題ではなく)社会的諸要因の結合や組織化の様式に根差している。言い換えば、道徳的特質の変化は社会の根本的な変化(社会的な原因)に基づいており、故に、その治療のためには社会を再編成せねばならないのである。
そして具体的な社会の再編成が、職業集団化(職業集団に個人を結び付けることで集団本位主義的な傾向とアノミー状態への傾向を緩和すること)であるのだ。
一般的に(自殺という社会現象に限らず)こうした再編成において必要なことは、現在においてが復活させることが不可能であるような過去の社会形態をわざわざ復興させることでも、全く新しい歴史上に類を見ない社会形態を一からこしらえることでもなく、過去のなかに含まれていた新しい社会形態の萌芽を探りだし、その成長を促すことである。
第三編 社会現象一般としての自殺について
(前回の投稿からこそっと第三編に入っています)
第二章 自殺と他の社会現象との関係
この章では、社会現象としての自殺が、社会におけるその他の社会現象とどのように関わっているかについて書かれている。
まずは、自殺が歴史上の各社会において道徳の許容する行為とされていたか、禁止されている行為とされていたかを明らかにする。そして道徳からの自殺への評価の根拠には何があったのか、その根拠は今日の社会における自殺の道徳的評価の中にも認められるものであるのか、を考える。
未開社会から今日までの間、誤解を恐れずに言えば、自殺を道徳的に禁止する動きは歴史の発展とともに強まる傾向にある。この傾向は、一般的に自殺が非難される理由として考えられる、”自殺者は社会への債務を履行せずにドロップアウトする不良債権であるから”という考えに反する。なぜなら、もしも自殺がその理由において道徳的に忌避な目を向けられるのであるとすれば、社会集団への個人の結合が強い集団本位主義的な社会、即ち未開社会において自殺を禁止する動きが最大にならなければならない。しかし、現実はその真逆であり、個性が社会に対して自立した価値を持つようになる自己本位主義の社会において、自殺への道徳的禁止の圧力は最大になるのである。
なぜ、このような傾向を持つのであろうか。
それは、社会が自己本位主義的に変化する中で、個人の人格が何にもまして尊重されるような価値を持つようになったからである。
個人の人格は、様々な宗教において神が持っていたような超越的な価値と神聖性を付与されるようになった。つまり、人格は宗教的な価値を持つものになったのである。そして、その宗教的価値を傷つける行為であるために、自殺に対する道徳的な禁止の圧力は、自己本位主義社会の発展とともに大きくなっているのである。
しかし、自己本位主義の社会とは、同時に科学精神に象徴されるような社会でもあり、科学精神はその反省的な批判精神は宗教の神秘性を認めない。にもかかわらずなぜ、人格の超越的な価値がそれでもなお認められているのであろうか。
これには、個人に外的な社会という存在による作用が関わっている。
社会において、絶対的な力を持つのは社会の集合的な力であり、個人は無に等しい。それは個人を社会に結び付け、社会を作り上げるのがその力であるからである。
自己本位的社会において、その科学的批判精神にも関わらず、人格の絶対的な宗教的価値が認められているのは、その価値が社会の集合的な力のよって与えられているからである。(ちなみに、複雑化する社会においては、すべての人々を普遍的に結びつけることが出来る概念が、すべての人間が人間であるがゆえに持つ”人格”以外に存在しないことが、社会が人格に神聖な価値を付与する理由である。)
つまり、自殺が自己本位主義社会において道徳的に激しく忌避されるのは、それが社会を社会として結びつけ得る唯一の価値概念である、”人格”の価値を脆弱なものにする可能性があり、それ以外に個人を社会に普遍的につなぐ価値を持たない自己本位主義社会においては、社会それ自体の存立を危うくするような類のものであるからである。
道徳との関係を見た後に、デュルケムは自殺と殺人ということなる二つの社会現象の間にささやかれる関係について触れる。自殺と殺人は、同一の心理的原因にもとづいており、その心理的傾向は社会の環境的条件に応じて、自殺か殺人のいずれかに帰結するから、自殺率と殺人率の両者の間には反比例の関係があるというのが、犯罪学の中で言われていた。
しかし、実際はそれぞれの社会現象はともに特定の社会的原因によって引き起こされるものであり、同一の心理的原因に基づくというようなものではない。ただ、自殺を引き起こす三つのタイプの社会的原因(自己本位主義、集団本位主義、アノミー状態のうち、あるものは自殺と同様に殺人の原因でもあり得、あるものは自殺の原因にはなるが殺人の原因にはならず、むしろ抑制する原因になる得る、ということだけである。
言えることは、自殺以外の様々な社会現象も、それがどんなに個人の個人的な気質に深く根差しているように見えても、自殺と同じように個人を越えた原因によって規定さえているということは紛れもなく真実である、ということである。
第三編 第三章 実践的な結論(最終章)
この章では自殺という社会現象に対して社会はどう向き合って行くべきであるか、その方法について考える。
まず、自殺は社会の病理であるのか、そうでないのか、という事をはっきりさせることが重要である。なぜなら、もしも自殺傾向が(譬えそれが道徳的に忌避されるような類のものであったとしても)社会において一般的に生じるような完全に消し去るようなことができないような傾向であるのならば、治療的に何か対策を講じるようなものではなく、その存在を受け入れなければならないものであり、一方で、それが病理であるならば、それに対する対策が講じられなければならないようなものである、ということになるからである。つまり、病理かそうでないかによって、それに対策を講じなければならないか否かが定まるからである。
西欧社会においては、自殺はある程度は一般的な傾向であり、病理ではないことが一般的にデータから言うことが出来る。つまり、西欧社会においては、自殺が一定数発生することは避けようのない自然なことだ、ということであり、ある限度以下に留まる限りにおいて自殺は西欧社会においては存在すべき正当な理由を持つということである。
しかし、とはいえ十九世紀を通じて生じている自殺の甚だしい増加は、一般的な傾向ではなく、克服されるべき病理である。
果たして、病理的な自殺の増加は、いかにして克服されることが出来るであろうか。
刑罰によって威嚇することが有効な手段になるという考えや、教育によって克服できるという考え方があるが、それはどちらも有効な手段ではない。
有効な手段は、その病理的な傾向を引き起こす原因に直接アプローチするものである必要がある。
これまで、自殺を引き起こす社会的な三つの異なる原因について分析してきた。それが、自己本位的自殺、集団本位的自殺、そして、アノミー的自殺であった。この三つの原因の内、集団的自殺は社会の統合性が強い社会において主な原因となる自殺であるから、個人主義の発展とともにあった十九世紀の自殺の急増は集団本位的自殺とは結びつかない。よって、十九世紀における自殺の急増という病理は、アノミー的自殺や自己本位的自殺の増加によるものであるということである。
言い換えれば、社会がその統合性を失い、個人が社会との結びつきをほどかれてしまったことに依るのであり、それはつまり、この病理を克服するためには個人と社会の結びつきを回復するような社会の構造を築き上げることが重要であるということである。
個人と社会の結びつきを再構築する機能を担い得る社会集団(カテゴリー)は政治社会でも、宗教社会でも、家族社会でもあり得ない。その機能を担うのは、同種類のすべての労働者、あるいは同じ職能の仲間が結び付いて形成する職業集団乃至は同業組合である。
職業集団は、その定義上の性質において、構成員間の利害が連携、一体化しているので、社会的な観念や感情を育むのには最高にうってつけの集団である。その上、ほかの度の集団にもまして、三つの利点を有している。常時存在していること、どこにでも存在していること、そして、影響が生活の大部分に渡ること、この三つである。こうした理由から、職業集団が個人を集団に結び付きを再構築する機能を担うにはうってつけなのだ。
述べてきたように、職業集団は単純に社会と個人の結びつきを再構築することで自己本位的自殺に対して抑制的な役割を期待することが出来る。しかもそれに加えて、職業集団は集団内の個人たちの欲求に(経済機能に関しては)規制をかける機能も有しているため、アノミー的自殺に対しても抑制的な役割を期待することが出来るのだ。
また、この職業集団によって対処できない自殺傾向である夫婦アノミーに依る自殺傾向に対しては、婚姻の解消を難しくする社会制度構築と女性の社会活動への参加の促進が重要であるとデュルケムは述べていた。
まとめ
自殺が増えたのは、人々がもはや、正当な欲求がどこでとどまらなければならないかを知らないからであり(アノミー情況的要因)、自らの努力に方向を見出すことができないから(自己本位主義的要因)である。これは即ち、道徳的貧困が原因である。
道徳の問題であるとしたとき、言葉の作用のみを用いた方法で治療し得るとする考えに陥りがちだが、道徳的問題は実は、(個人の意識の上の問題ではなく)社会的諸要因の結合や組織化の様式に根差している。言い換えば、道徳的特質の変化は社会の根本的な変化(社会的な原因)に基づいており、故に、その治療のためには社会を再編成せねばならないのである。
そして具体的な社会の再編成が、職業集団化(職業集団に個人を結び付けることで集団本位主義的な傾向とアノミー状態への傾向を緩和すること)であるのだ。
一般的に(自殺という社会現象に限らず)こうした再編成において必要なことは、現在においてが復活させることが不可能であるような過去の社会形態をわざわざ復興させることでも、全く新しい歴史上に類を見ない社会形態を一からこしらえることでもなく、過去のなかに含まれていた新しい社会形態の萌芽を探りだし、その成長を促すことである。
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