主観/客観図式 デカルト
何度も読んだことがある解説書を読んでいるはずなのに、「理解したぞッ!」という感覚は唐突に訪れるものなんだなぁ、とふと思いました。
デカルトの「方法的懐疑」というものが一般的な懐疑と何が違うのか、とか。
デカルトの「主観/客観図式」が何を意味しているのか、とか。
前者の二つの懐疑の違いは、ヘレニズムの懐疑主義とデカルトを比較してみるとはっきりわかります。ヘレニズムの懐疑はアタラクシア-魂の平静-に至るためには、確実だといえることなんてほとんどない現実の問題に頭を悩ませるよりも、そうした事柄に対してエポケー-判断停止-をすることが大切だ、というように考える懐疑でした。一方で、デカルトは「疑いようのないもの」とは何だろうか、それを探すためにすべてを疑いました。つまり、この懐疑はあくまでも「疑いようのないもの」を見つけるための方法/手段なのです。だから、デカルトの懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれているんです。
後者の「主観/客観図式」というのは、世界をどのように見るか、その見方の一つです。細かいことは省略しますが、デカルトは方法的懐疑の末、「考えるわたし」だけは疑いようのないものである、と結論を出しました。そして、「神の誠実」を前提にしながら、その疑いようのない考えるわたしにとって、明らかなもの-明証的なもの-はすべて確かに存在している、というように考えるようになります。ここに、一つの世界観の転換があります。デカルトは、懐疑以前において世界が自分よりも先に存在をしていて、そこに自分があとから存在するようになった、と考えていたはずです。つまり、世界の存在が自分の存在の根底に前提として存在しているわけです。ですが、懐疑を経てその関係は逆転します。世界は、自分の以前に存在するものではなく、私が認識し思考することを通じて初めて存在するようになったのです。私が認識する限りにおいてはじめて世界は確かに存在する、ということです。「考えるわたし」が中心となって世界が広がっているのです。
そして、デカルトはこの「考えるわたし」を「前に置かれたもの」「根底に置かれたもの」を意味する「主観」と呼ぶようになりました。この時同様に、認識や思考の対象である世界は「後に置かれたもの」を意味する「客観」と呼ばれるようになったのです。このような世界の見方が「主観/客観図式」という世界の見方です。
この世界観の新しさは、デカルトへのハイデガーの批判を考えるとわかり易いです。ハイデガーは「世界統握の時代」の中で、デカルトのようにすべてを認識対象としかみなさないような考え方こそが、やがて自然を支配し、認識の外部に存在を認めない近代自然観の元凶である、という考えを述べています。この批判の中から見えるのは、デカルトの世界観が認識できるもの、思考出来るものだけを世界と考えている、ということです。私たちにとってはデカルト的な世界観があまりにも自然なので「主観/客観図式」に新しさや面白さを抱きにくいですが、世界を思考や認識の対象として考えるこの図式は裏を返せば「認識の外に存在を認めない世界観」なのです。この世界観は決して唯一の世界観ではありません。例えば、カントはデカルトとは違って、認識の外側の存在である「物自体」という存在を認めていました。そのほかにも、いろんな世界観が哲学の世界では提案されています。とにかく、何か一つの世界観が絶対的な唯一普遍のものではないと理解をし、それぞれの違いを理解することが重要だと思います。
かなりごちゃごちゃしてしまった気がしますが、デカルトの「主観/客観図式」というのは認識・思考するわたし(=主観-根底に置かれたもの)を中心に、世界を認識・思考の対象(=客観-後に置かれたもの)として見る世界観だ、ということ。これがここで僕が説明したいことでした。
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