構造主義についてのメモ

今回は、「構造主義」について最近学んだことをまとめようと思います。



「構造主義」という言葉を、インターネットで検索すると、以下のようなウィキペディアの解説が真っ先に一番上に表示される。

構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。 広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。”

「現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解する」という表現は一見わかりやすいかとも思うけれど、それが具体的にどういう意味なのか、これだけではわかりにくい。なので、ここでは構造主義に関して僕が理解していることを記していこうと思う。ただ、僕の理解も哲学史の概説書をさらっと読んだ程度のものなので、きちんと理解することができているのか、その点に関しては不安である。なので、タイトルもあくまで「メモ」としたし、間違いがあれば教えていただきたい。

まず、どのようにして構造主義が生まれたのか、ということについて触れてみる。構造主義という思想の成立の背景には、現象学という現代思想がある。僕は、何かの概説書で初めにそれを読んだとき、「構造主義は現象学の発展形態だ」というように理解(誤解)をしてしまったのだが、現象学がどうしたら構造主義と繋がるのかその部分が全く理解できず頭を抱えてしまった。しかし、この「構造主義が現象学の発展形態だ」という僕の理解は全くの見当違いであり大きな誤解だった。両者の正しい関係は「構造主義は現象学への批判の中から生まれた」というものである。ただ、この点を理解するためには現象学について少し知らなければいけない。なので、少し本筋からは外れてしまうが、現象学に寄り道をしてみようと思う。

現象学は「実在とは何か」という問いへの説明を試みる哲学の一分野であり、この分野における代表的な哲学者には、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティなどが含まれる。彼らは異なった視点から「実在とは何か」についての答えを模索するが、現象学は一貫してその説明の中心に個々人の意識や主体を置いていた(フッサールの志向的相関関係、サルトルの対自存在など)。構造主義は、この点を人間中心主義として批判する中で生まれていったのである。

では、意識や主体を中心に置く現象学を批判した構造主義は、意識や主体の代わりに何を中心に置いたのか。それは、冒頭のウィキペディアの説明(あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論)が示しているように、社会的な関係性、などの構造である。ここまでの説明をまとめてみると、「人間中心主義への批判から生まれた構造主義は、現象をその構造を中心において説明する思想である」という、とても滑稽な要約が出来上がる。構造主義が構造を中心に物事を説明する見方だという当たり前のことを説明するために時間をかけすぎてしまったが、いよいよここからは「構造を中心に物事を説明する」とはどういうことなのかを説明していく。

構造主義の論者としては、ソシュール、レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、フーコー、デリダなどがよく挙げられているが、その中には言語学者や精神科医など多様な人物が含まれており、そのため個々人の仕事はかなり異なっている。その中でも構造主義を理解するに当たっては、ソシュールの構造言語学を入り口にすると個人的にとてもわかりやすいと感じた(とはいえ、たぶん殆どの概説書がソシュールから入っていると思うが…)。

ソシュールはスイスの言語学者であり、構造言語学という言語学の一分野を作り上げた人物である。そして、この構造言語学における言語観が構造主義の成立の土台となったと言われている。前置きが長くなったが、構造言語学とはそれまでの言語学と較べていったい何が新しいのだろう。端的に言えば、構造言語学の誕生は言語観の大きな転換の契機であった。構造言語学以前において、語とは特定のものや概念を指す名称の集まりだという「言語名称目録観」という言語観が主流であった。しかし、この言語観では説明できないことがあることが指摘された。例えば「右」という言葉があるが、「右」とは「左」の反対であり、何かの名称で無い。即ち、ここにおいて「右」という言葉は「名称」としてではなく、ほかのものとの差異を示すものとして機能していることになる。ソシュールは、この「右」などの語と同様に、ほかのすべての語も特定の対象の名称ではなく、他のものとの差異を示す記号であり、それ故に語が持つ意味も言語全体の体系との関係において絶えず変化し得る、ということを指摘した。わかりにくいかもしれないので具体例を挙げて考えてみよう。例えば、「サンダル」「草履」「スリッパ」などの単語がある。言語名称目録観では、これらの単語は特定のモノ・概念に与えられた名称であると考えられていたわけである。そのため、「草履」という語が消滅する時というのは草履という単語が示すモノや概念が消滅する時であり、そして、サンダルという語の消滅は他の「サンダル」や「スリッパ」などの他の単語には影響を与えることはない。しかし、ソシュールの構造言語学の考えに基づくと、「草履」という語は「草履」が示すモノや概念が消滅する瞬間以外においても消滅し得るし、そして、語が消滅した後は「草履」がかつて示していたモノや概念は他の語(例えば、「サンダル」や「スリッパ」)によって示されることになる。

わかりやすい説明ではなかったかもしれないが、ここで述べたかったことは、ソシュールによれば、語の意味とは固定的な内容をもっているものではなく、語とは常に他の語と差異を示す記号にすぎずない、ということ。そして、構造主義との関連において特に重要な点は、ある語の意味は言語全体の体系との関係の間で決まり、体系のあり方が変化(語の生成消滅など)すればそれに応じて変化する(逆もまた然り-あるひとつの現象に応じて体系の構造全体も変化する)、ということである。これは即ち、ある言語内部における一つの現象を考えるとき、常にその言語の全体の構造を視野に入れる必要がある、ということを示唆している。そして、この姿勢を言語以外の様々な社会現象に取り入れて発展させたのが、構造主義の思想家たちである。

ここまで構造主義について最近学んだことを記述してはみたものの、構造主義についてまとめることは思った以上に大変な作業で疲れてしまった。なので今回はここまでにしようと思う。まだまだ不勉強な自分の理解なので誤解もたくさんあると思うのだけれど、誤りを恐れずに僕が思う構造主義の意義について、まとめとして述べておきたい。今では、もしかしたらある一つのもの事や現象を全体の構造との関係や全体における位置などに着目しつつ論じることは普通のことかもしれないが、そのような視点を持つ始まりを作ったという点にその大きな意義があるのだと思う。最初に述べたように、構造主義は意識や主体を中心に置いて物事を理解・説明しようとする現象学や実存主義への批判として生まれてきた背景があった。意識や主体を中心に理解する見方は、デカルト以来(もしかしたらもっと前から?)、西洋の哲学において大きな力と存在感を持ってきた見方のようにも思う。それを思うと、一層構造主義という思想の持つ意義は大きく感じられないだろうか。

参考文献
貫成人 「哲学史」

(また新しく構造主義について学ぶことがあれば、新しく何かまとめようと思います。)

コメント

なにが読まれているのでしょうか

シンボリック相互作用論とはなにか

主観/客観図式 デカルト

R. マートン 社会理論と社会構造 第4章 社会構造とアノミー