中世の思想-封建制とキリスト教
中世において、政治は封建制によって治められていた。封建制においてはぞれぞれの封臣同士は、たとえ主君と従臣の関係であっても封臣としては対等な主体であった。言い換えれば。彼らは対等な封臣同士の双務契約として他の封臣に仕えたり、ほかの封臣を使ったりするのであった。このように自立性を持った封臣たちは名誉感情を重要視していた。即ち、他者からの評価を気にする他者志向性と、利益や状況に左右されることなくプライド・自尊心などの自分自身を堅持するという精神的独立性がこの時代の封臣たちの特徴であった。そしてこうした姿勢は倫理や正義などの価値を重視し、同時に権力的な関係性(権力)に依る支配を越えた客観的なモノ(法など)に依る支配の重視する、という政治的な自由の萌芽であったといえる。
この時代に、封建制に加えて思想史の観点から重要性を持っているのはやはりキリスト教である。中世の社会において知というものは宗教的なもののことを主にさしており、多くの大学などの教育機関も教会に関することを学ぶ場として機能していた。キリスト教の中でもその思想や考え方は決して一枚岩ではなく、内部には諸派が存在していた。このようにキリスト教の内部でも派閥によって様々な論者がいたわけだが、ここではアウグスティヌス、トマス=アクゥイナス、オッカムの代表的な三名の思想に触れる。
アウグスティヌスは自由な意思の発見者と呼ばれる。アウグスティヌスは考えた、神による世界の想像はどのようにして行われたのか。何もないところから、世界はどのようにして生まれたのか。そして、すべての始まりには神の「自由な意志」があったに違いない、と結論づけた。すべては「意志」することから始まった、と。言い換えれば、世界は神が自由な意思に基づいて世界の想像を決意したことによって始まった、ということである。彼は、この意志こそがすべての始まりである、という考えを信仰にも適用した。具体的には、人間が正しく生きるためには神に頼りながら、人が意志することが必要であると考えたのだった。このように「自由な意思」を全ての基礎として重視する考えから、アウグスティヌスは「自由な意志の発見者」と呼ばれる。
トマス=アクゥイナスは神学とアリストテレスの哲学を融合させた。端的に言えば、彼は物事の普遍的な本質は個物の中に内在している、と考えた。例えば、神が作ったこの世界には「目的」や「最高善」が本質として内在していると考えたし、また、社会に存在している秩序や法は普遍的で本質的な秩序を分有しているが故に正当であるなどと考えたりした。そのほかにも、トマスは神にもその本質は内在しているはずで、それは「理性」(ロゴス)であり、それ(ロゴス)はすべてのものに内在していると考えた。(ストア派のロゴスと似たものであるような気がする。「秩序」としてのロゴス)そして、トマスは「知」を物事の本質(=理性・ロゴス)を学問的に捉えたものであると考えて重要視した。(キリスト教的な主知主義の起こり?)
トマスがこの世界の普遍的な本質の存在を前提とし、そのありかを問題にしたことに対し、オッカムは「根拠のない普遍は存在しない」として普遍的な本質の存在それ自体を否定した。
オッカムは、アウグスティヌスのように神の自由意志を根本的なものであると考え、神の自由意志をも規定する「本質」としての「理性」(ロゴス)の存在を否定した。そのうえで、人間が「普遍」と認識するすべてのものは経験的なものの積み重ねに過ぎない、というのだ。例えば、目の前に「りんご」があるとする。いま、そのりんごとは別にもう一つのりんごを目の前に出す。私たちは、その両者が同様にりんごであることを認識することができる。トマスのように考えれば、それはりんごの内部には「りんご」としての本質が内在しており、それがすべてのりんごに共有されているためである。というように考えただろう。しかし、オッカムは違う。私たちがふたつのりんごが同じ「りんご」であると考えるのは、両者が単純に「似ている」と経験的に知覚されるからに過ぎない、と考えるのだ。これが、すべての「普遍」を経験的なものの積み重ね、組み合わせと見る見方である。この見方は、近代の機械論的自然観(自然の事物はある普遍的な目的を与えられて存在しているのではなく、事実としてそこにあるだけ、という考え方)を準備することになった。
トマスとオッカムは互いに正反対の考えを持ってはいたが、両者共に「普遍」について思索している点では共通している。この「普遍」に関する論争は普遍論争と呼ばれ、中世において大きな論争になった。この普遍論争に際して、普遍的な本質は実在しているという見方をする考えを実在論と呼び、それに対する立場を唯名論と呼ぶ。オッカムは代表的な唯名論者である。
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