ゼロ・グラビティと先駆的決意性

時間があったので、「ゼロ・グラビティ」という映画を見ました。
英語を聴こうと思って観たものの殆ど会話はなく(…なぜ、トレイラ―を見た時点それに気づかなかったんだろうか…)、目的は果たせなかった感は否めませんが作品自体は楽しめました。僕は、その物語の構成の素晴らしさとか、画の構図の善し悪しを語ることができるほど、映画のことをよく知らないのでそういった観点からコメントをすることはできません。なので、これから僕がここに書くのは映画に対する評価ではなく、単なる僕の感想です。

この「ゼロ・グラビティ」という映画のあらすじを簡単に説明します。冒頭、宇宙開発のミッションに参加していたある女性の学者たち一行が宇宙での作業中に、爆破処理された人工衛星の破片の嵐に巻き込まれるところからこの映画は始まります。鉄くずの嵐によって彼女たちの宇宙船は破壊され宇宙に取り残されてしまう主人公。彼女は宇宙の過酷な状況の中、限られた資源を駆使しながら地球への帰還を試みます。そして、その旅の中で、生きることに消極的だった主人公が積極的に生きることを決意する。この映画はそう言う物語です。

映画を鑑賞し終えて、僕の頭に浮かんでいた言葉がありました。それは「先駆的決意性」という最近学んだ言葉です。この言葉はハイデガーというドイツの哲学者が作りだした言葉の一つであり、ハイデガー曰く人間がその存在の本来性を取り戻すために必要なことです。ハイデガーは「存在一般の意味への問い」を追求した哲学者として知られており、彼は気が付いたときにはすでに現に存在している「現存在」としての人間の分析を通して、その問いを探求しました。現存在としての人間の一般的なあり方を考えると、人間はとりあえず日常の生活に没頭しており、その行動は常に道具を用いた行為の形をとります。そしてそうした道具をハイデガーは道具存在と呼びます。そして、そうした道具存在はそれだけで存在しているのではなく、常に目的と結びついています。例えば、ノコギリは木材を切るために、木材は柱を建てるために、柱は屋根を乗せるために…などと言ったように結びついているわけです。こうした目的-手段のネットワークを道具連関または目的手段連関と呼びます。そして、ハイデガー曰く、道具連関は私たち現存在が生活する世界そのものであり、現存在はその究極の目的(家を建てるのも、料理をする、のもあらゆる行為は常に「私」のためである)としてその内部に存在する世界内存在であるというのです。

前置きが長くなりましたが、「先駆的決意性」という言葉が登場するのはここからです。道具連関の世界の中で人間は究極の目的として存在しているといいましたが、実は道具連関の中での現存在のあり方はその本来性を失った状態であり、頽廃したあり方であるのです。少し詳しく説明すれば、道具連関の究極目的としての人間というのは、特定の個人ではなく、誰でもありうるが誰でもいいという意味の「ひと(ダス・マン)」としての人間だからです。即ち、唯一の私という意味での現存在の本来性は道具連関の中では達成されることはない、という意味です。そこで、本来性を失ってしまった人間がその本来性を取り戻すための方法が「先駆的決意性」なのです。

道具連関の中で、人間は常に交換可能であるが故に「ひと(ダス・マン)」としてその本来性を失っている、と述べました。では、人間が決して交換不可能な状況とは何でしょうか。ハイデガーが出した結論は、「自らの死」でした。人間は、「自分の死」だけは誰かと誰かに変わってもらうことはできない。それ故に「自分の死」だけが人間にその本来性を取り戻すのだ、とハイデガーは言うのです。しかし、皮肉なことにたとえ人間の本来性を取り戻す唯一の方法が「自らの死」であったとしても、「自らの死」は同時に存在の消滅でもあります。まるで風船が空気を最大にそのうちに含んだ瞬間に破裂してしまうように、人間の存在はその「全体性」を達成し、その「本来性」を取り戻した瞬間に消滅してしまうのです。それ故に、ハイデガーは実際に死ぬのではなく、将来確実に訪れる自らの死をあらかじめ先回りし(先駆的)その可能性と向き合うことによって、現存在はその存在としての本来性を取り戻すことができる、と述べました。それが、「先駆的決意性」という言葉の意味です。

映画に話を戻しますが、この映画の中では主人公は常に自らの死と隣り合わせです。どこで命を落としてもおかしくない状況の連続でした。そんな状況の中にあって、物語のクライマックスまで主人公はずっと迫りくる状況に対応することに精一杯であり、迫りくる自らの死と向き合う余裕もありませんでした。表情も常に険しく眉間には常に深いしわが刻まれています。ですが、クライマックスを迎えて主人公の表情に生命力があふれだします。それは不思議と、主人公が自分の死と向き合い、その可能性を受け入れた瞬間でした。まさに、先駆的決意性の瞬間だったのです。

”このままいくと結果は二つしかない
無事に生還し、奇想天外な話を聴かせるか―
10分後に焼け死ぬか
どっちだろうと、誰のせいでもない。
結果がどうあれ、これは最高の旅だ。
準備はできた。”

物語の最後の最後、このセリフを口にしている主人公の表情は、作中でもっとも活き活きとしていて、この部分は僕は一番好きなシーンです。自らの死の可能性と向き合い、それに立ち向かうということは言うほど簡単なことではないけれど、このシーンの主人公のような表情で生きられるのなら向き合ってみたい、そう思えた映画でした。

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