デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑤
デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑤
第二編 第三章 自己本位的自殺(つづき)
この章では前章で明らかになった、宗教社会における統合性、社会の集合性の強度と自殺の関係が、その他の社会集団においても言えるのかどうか、家族社会、政治社会について考える。
家族社会について
一般的な傾向として、既婚者の自殺率は未婚者の自殺率と比べて、抑制傾向にある。
そのうえで、家族関係における二つの異なる関係に注目する。
一つは、婚姻関係―結婚に依る男女の結合関係―であり、もう一つは、家族関係―子どもの存在など世代間を繋ぐような関係―である。
両者の自殺率に及ぼす影響としては、婚姻関係は自殺率に対して、ある程度の抑制傾向を持っていることは明らかであるが、その力としては決して大きくはない。特に婚姻関係がもたらす影響は、性別によってその大きさが異なる。
一方で家族関係は、婚姻関係に比べると、比較的強い自殺率抑制の傾向をもっている。
その傾向性としては、家族集団が大きくなり、集団内部でのやり取りが活発になればなるほど、自殺の抑制傾向としては大きくなることが言える。
つまり、宗教社会における社会の統合性と自殺傾向の関係と同様の関係が家族社会においても見られる、ということになる。
政治社会について
政治社会についてのデータ分析で言えることは、政治社会に変革が起こる際、その変革が国民の感情を大きく左右するような類のものであれば、その社会における自殺率は抑制されるということである。
これは、変革によって人々が社会的な潮流の中に統合されていく、その統合性の強さに応じて、自殺率が変化するということである。
よって政治社会においても、宗教社会の分析で見られたような、集団の統合性の強さと自殺率の関係が成立しているということである。
まとめ
宗教社会においても、家族社会においても、そして政治社会においても、社会の統合性と自殺率は反比例の関係があるということが一般的な帰結としてわかった。このことをさらに一般化すると次のように言える。
社会における統合性の強さは、その社会における自殺率と反比例する。
即ち、社会の統合性が弱まり、個人主義が強まるにしたがって自殺傾向は大きくなるということである。
社会的な自我からのこの逸脱と、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるような状態を自己本位主義(エゴイズム)と呼ぶこととするならば、と前置きをしたうえで、デュルケムは常軌を逸した個人化から生じるこの自殺傾向に自己本位的自殺という名称を与える。
自己本位主義が自殺につながるその理由として、デュルケムは二つの理由を挙げる。
一つは集合的な力が、それ自体として自殺を阻む大きな障壁であるから、その力が弱められることは自殺傾向の増加につながるという理由。つまり、集団的な力が強い社会では、人々は自分自身をさえ、自分自身の自由気ままに扱うことを許さない。よって自殺も自由に行うことは難しくなる。それ故に、集合的な力の弱体化によって、個人は自身の自由に振舞うことが許され、結果として自身の命も自由に扱えることがしやすくなる、という説明である。
この第一の理由も重要であるが、それはあくまでも副次的なものであり、自己本位主義が自殺傾向に通じるその関係にはもっと根本的な、自己本位そのものが自殺の原因であるといえるような理由が存在するという。
その第二の理由は、自己本位と生の意味の喪失の関係に依るものである。
人間には、社会的人間としての側面と、物理的人間としての側面の二つの異なる位相が存在する。複雑な文明社会においては、社会的人間の側面は複雑化しており、その欲求も複雑である。社会は人間に生の目的を見出すことを試みさせる。本来、人間に生の意味を見出す試みを起こすのも社会であり、それ故に生の意味も社会によって与えられる。人々は社会と自身を同化し、社会の目的を個人の目的とすることで生に意味を与えるのである。しかし、統合力の失われた社会では、それ(社会が統合力を失っている)が故に、社会は社会の目的を個人の目的と統合するだけの力はもっていない。そのため、そうした社会において個人は生に目的を見出すことのできない不安定な存在になってしまう。
換言すれば、人間(文明人―社会的人間)の生の意味とは、社会によってのみ与えられるので、社会的な自我からの逸脱と個人的自我の過度な主張に特徴される自己本位主義は、不可避的に生の意味を見失わせ、人間を自殺傾向へと導くのである。
第二編 第三章 自己本位的自殺(つづき)
この章では前章で明らかになった、宗教社会における統合性、社会の集合性の強度と自殺の関係が、その他の社会集団においても言えるのかどうか、家族社会、政治社会について考える。
家族社会について
一般的な傾向として、既婚者の自殺率は未婚者の自殺率と比べて、抑制傾向にある。
そのうえで、家族関係における二つの異なる関係に注目する。
一つは、婚姻関係―結婚に依る男女の結合関係―であり、もう一つは、家族関係―子どもの存在など世代間を繋ぐような関係―である。
両者の自殺率に及ぼす影響としては、婚姻関係は自殺率に対して、ある程度の抑制傾向を持っていることは明らかであるが、その力としては決して大きくはない。特に婚姻関係がもたらす影響は、性別によってその大きさが異なる。
一方で家族関係は、婚姻関係に比べると、比較的強い自殺率抑制の傾向をもっている。
その傾向性としては、家族集団が大きくなり、集団内部でのやり取りが活発になればなるほど、自殺の抑制傾向としては大きくなることが言える。
つまり、宗教社会における社会の統合性と自殺傾向の関係と同様の関係が家族社会においても見られる、ということになる。
政治社会について
政治社会についてのデータ分析で言えることは、政治社会に変革が起こる際、その変革が国民の感情を大きく左右するような類のものであれば、その社会における自殺率は抑制されるということである。
これは、変革によって人々が社会的な潮流の中に統合されていく、その統合性の強さに応じて、自殺率が変化するということである。
よって政治社会においても、宗教社会の分析で見られたような、集団の統合性の強さと自殺率の関係が成立しているということである。
まとめ
宗教社会においても、家族社会においても、そして政治社会においても、社会の統合性と自殺率は反比例の関係があるということが一般的な帰結としてわかった。このことをさらに一般化すると次のように言える。
社会における統合性の強さは、その社会における自殺率と反比例する。
即ち、社会の統合性が弱まり、個人主義が強まるにしたがって自殺傾向は大きくなるということである。
社会的な自我からのこの逸脱と、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるような状態を自己本位主義(エゴイズム)と呼ぶこととするならば、と前置きをしたうえで、デュルケムは常軌を逸した個人化から生じるこの自殺傾向に自己本位的自殺という名称を与える。
自己本位主義が自殺につながるその理由として、デュルケムは二つの理由を挙げる。
一つは集合的な力が、それ自体として自殺を阻む大きな障壁であるから、その力が弱められることは自殺傾向の増加につながるという理由。つまり、集団的な力が強い社会では、人々は自分自身をさえ、自分自身の自由気ままに扱うことを許さない。よって自殺も自由に行うことは難しくなる。それ故に、集合的な力の弱体化によって、個人は自身の自由に振舞うことが許され、結果として自身の命も自由に扱えることがしやすくなる、という説明である。
この第一の理由も重要であるが、それはあくまでも副次的なものであり、自己本位主義が自殺傾向に通じるその関係にはもっと根本的な、自己本位そのものが自殺の原因であるといえるような理由が存在するという。
その第二の理由は、自己本位と生の意味の喪失の関係に依るものである。
人間には、社会的人間としての側面と、物理的人間としての側面の二つの異なる位相が存在する。複雑な文明社会においては、社会的人間の側面は複雑化しており、その欲求も複雑である。社会は人間に生の目的を見出すことを試みさせる。本来、人間に生の意味を見出す試みを起こすのも社会であり、それ故に生の意味も社会によって与えられる。人々は社会と自身を同化し、社会の目的を個人の目的とすることで生に意味を与えるのである。しかし、統合力の失われた社会では、それ(社会が統合力を失っている)が故に、社会は社会の目的を個人の目的と統合するだけの力はもっていない。そのため、そうした社会において個人は生に目的を見出すことのできない不安定な存在になってしまう。
換言すれば、人間(文明人―社会的人間)の生の意味とは、社会によってのみ与えられるので、社会的な自我からの逸脱と個人的自我の過度な主張に特徴される自己本位主義は、不可避的に生の意味を見失わせ、人間を自殺傾向へと導くのである。
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