デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑦
デュルケム著 自殺論 要約 ⑦
第二編 第五章 アノミー的自殺
この章では、これまで見てきた社会の側面に加えて、社会が持っている個人への規制作用が自殺傾向に及ぼす影響について分析を加える。
まずデュルケムは、経済危機の時期において、自殺傾向が上昇することを指摘する。この事実に対する説明として広く考えられているのは、危機が与える経済危機によって生活が困窮することが原因であるという説明である。しかし、デュルケムはその説明に対し、貧困は自殺率に影響を及ぼさないことや、人々の生活水準に対してポジティブな影響を及ぼすような危機においても同じく自殺率が上昇することを示し、その通説を退ける。
そして、その説明に代えて、デュルケムが指摘するのは、社会が持つ規制作用の影響であった。
規制作用と自殺の関係を示すために、人間の欲求について触れる必要がある。
動物の欲求が生命活動を維持するためだけの物理的なものによって縛られているのに対し、人間の欲求は物理的なものだけでなく、それ以上に精神的なものが重要な位置を占めている。人間は精神の持つ反省作用によって、たとえ物理的な欲求が満たされても、常に現状を越える状態があること知っている。それ故に、その欲求は満たされた瞬間その上の状態を欲求しており、本質的には際限なく拡大されていく。言い換えれば、人間の欲求は本質的に無限であり、決して満たされることはないのである。
故に、欲求を満たすための活動にも終わりはなく、それは永遠に前進のない試みに等しい。永遠に遠くにある目的を目指す探求は、前進がないことと等しく、その終わりのない探求は苦悩を生むばかりである。よって、人間はその欲求に何らかの制限を設けることなしには、苦悩に陥るばかりなのだ。しかし、人間はその制限を自分自身の中に発見することはできない。その制限を与えられる存在は社会のみなのである。
多くの社会においては、社会は道徳の規律というような形で個人の欲求に制限や限界を与え、それを規制している。ある階級の人間はこれ以上を望んではならない、という尺度があり、それらの尺度は人々によって承認されることによって規制作用を発揮しているのである。
社会の危機や混乱は、生活の諸条件を変えてしまうために、これまで欲求を規制してきた尺度(ある階級はこれ以上を望んではならない、という道徳的尺度・規律)はもはやそのままではあり得なくなる。その結果、人はもはや何が正当な要求や希望で、何が過大な要求や希望であるのか、わからなくなってしまうのだ。こうして欲求は制限を失い、終わりのない渇望が人々を支配するようになる。そしてそれは、前に述べた苦悩を導くことになり、その苦悩は人々に自ら死を選ばせる。
こうした社会危機や混乱にともなって表れる無制限、無規制の状態をアノミー状態と呼ぶ。
もしも、このアノミー状態が社会危機という特殊な状況のみにおいて起こるのであれば、アノミーに依る自殺は非常に限定された期間においてのみ起こるものということになり、それ故に、社会の自殺傾向の一般的な性質を分析し明らかにする試みにとって、その重要性はそれほど大きくはないだろう。
しかし、このアノミー状態は社会危機の情況のみにおいてではなく、社会のある領域においては、常に存在している。それが産業の領域である。自由な競争が行われる産業の領域においては、(結果として人々に苦悩を与える)”制限を受けない自由な欲望”は美徳でさえある。さらに、そうした条件下では、多くの人間が自由な欲望に任せて競争をするため、競争は熾烈になり、資源の獲得は殊更困難なものとなる。そして、その困難は人々がアノミーから得る苦悩を倍増させる。(欲望ばかりが無限に大きくなるのにもかかわらず、実際にはほんの僅かしか得られないから。)
即ち、アノミーは、危機的状況においてのみ自殺を導く限定的な要因ではなく、社会における自殺の恒常的で特殊的な要因の一つであるのだ。
そして、このアノミー状態からくる苦悩から生じる自殺をアノミー的自殺と呼ぶことにする。
アノミー的自殺は一つの変種として、離婚によっても引き起こされる。(家族アノミーと呼ばれるものである。)それは、結婚制度を異性への欲求に対する制限であると見ることで理解できる。つまり、離婚は結婚制度によってなされていた異性への欲求に対する規制が取り払われ、その結果、欲望のたがが外れてしまうということを意味するのである。欲望への規制が失われれば、必然的にそれはアノミー状態に陥り、アノミーの苦悩は人を死へと追いやる。これが家族アノミーと呼ばれるものである。
第二編 第五章 アノミー的自殺
この章では、これまで見てきた社会の側面に加えて、社会が持っている個人への規制作用が自殺傾向に及ぼす影響について分析を加える。
まずデュルケムは、経済危機の時期において、自殺傾向が上昇することを指摘する。この事実に対する説明として広く考えられているのは、危機が与える経済危機によって生活が困窮することが原因であるという説明である。しかし、デュルケムはその説明に対し、貧困は自殺率に影響を及ぼさないことや、人々の生活水準に対してポジティブな影響を及ぼすような危機においても同じく自殺率が上昇することを示し、その通説を退ける。
そして、その説明に代えて、デュルケムが指摘するのは、社会が持つ規制作用の影響であった。
規制作用と自殺の関係を示すために、人間の欲求について触れる必要がある。
動物の欲求が生命活動を維持するためだけの物理的なものによって縛られているのに対し、人間の欲求は物理的なものだけでなく、それ以上に精神的なものが重要な位置を占めている。人間は精神の持つ反省作用によって、たとえ物理的な欲求が満たされても、常に現状を越える状態があること知っている。それ故に、その欲求は満たされた瞬間その上の状態を欲求しており、本質的には際限なく拡大されていく。言い換えれば、人間の欲求は本質的に無限であり、決して満たされることはないのである。
故に、欲求を満たすための活動にも終わりはなく、それは永遠に前進のない試みに等しい。永遠に遠くにある目的を目指す探求は、前進がないことと等しく、その終わりのない探求は苦悩を生むばかりである。よって、人間はその欲求に何らかの制限を設けることなしには、苦悩に陥るばかりなのだ。しかし、人間はその制限を自分自身の中に発見することはできない。その制限を与えられる存在は社会のみなのである。
多くの社会においては、社会は道徳の規律というような形で個人の欲求に制限や限界を与え、それを規制している。ある階級の人間はこれ以上を望んではならない、という尺度があり、それらの尺度は人々によって承認されることによって規制作用を発揮しているのである。
社会の危機や混乱は、生活の諸条件を変えてしまうために、これまで欲求を規制してきた尺度(ある階級はこれ以上を望んではならない、という道徳的尺度・規律)はもはやそのままではあり得なくなる。その結果、人はもはや何が正当な要求や希望で、何が過大な要求や希望であるのか、わからなくなってしまうのだ。こうして欲求は制限を失い、終わりのない渇望が人々を支配するようになる。そしてそれは、前に述べた苦悩を導くことになり、その苦悩は人々に自ら死を選ばせる。
こうした社会危機や混乱にともなって表れる無制限、無規制の状態をアノミー状態と呼ぶ。
もしも、このアノミー状態が社会危機という特殊な状況のみにおいて起こるのであれば、アノミーに依る自殺は非常に限定された期間においてのみ起こるものということになり、それ故に、社会の自殺傾向の一般的な性質を分析し明らかにする試みにとって、その重要性はそれほど大きくはないだろう。
しかし、このアノミー状態は社会危機の情況のみにおいてではなく、社会のある領域においては、常に存在している。それが産業の領域である。自由な競争が行われる産業の領域においては、(結果として人々に苦悩を与える)”制限を受けない自由な欲望”は美徳でさえある。さらに、そうした条件下では、多くの人間が自由な欲望に任せて競争をするため、競争は熾烈になり、資源の獲得は殊更困難なものとなる。そして、その困難は人々がアノミーから得る苦悩を倍増させる。(欲望ばかりが無限に大きくなるのにもかかわらず、実際にはほんの僅かしか得られないから。)
即ち、アノミーは、危機的状況においてのみ自殺を導く限定的な要因ではなく、社会における自殺の恒常的で特殊的な要因の一つであるのだ。
そして、このアノミー状態からくる苦悩から生じる自殺をアノミー的自殺と呼ぶことにする。
アノミー的自殺は一つの変種として、離婚によっても引き起こされる。(家族アノミーと呼ばれるものである。)それは、結婚制度を異性への欲求に対する制限であると見ることで理解できる。つまり、離婚は結婚制度によってなされていた異性への欲求に対する規制が取り払われ、その結果、欲望のたがが外れてしまうということを意味するのである。欲望への規制が失われれば、必然的にそれはアノミー状態に陥り、アノミーの苦悩は人を死へと追いやる。これが家族アノミーと呼ばれるものである。
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