デュルケム著 自殺論 要約(というより読書ノート)⑥
デュルケム著 自殺論 要約 ⑥
第二編 第四章 集団本位的自殺
これまでの二章では、社会の統合性の弱さによる個人化、個性化が自殺に帰結するという自己本位的自殺について述べられてきた。しかし、この章では、自己本位自殺と全く逆の理由から生じる自殺の類型として、集団本位的自殺について述べる。
集団本位的自殺とは、集団本位主義の社会―自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、即ち所属している集団におかれているような状態―において起こりやすい自殺類型であり。言い換えれば、集団の統合力が強く、そのために個人の人格が無(無意味)に等しく、よって個人が社会の集合的な要求から守られることがないような社会において生じ易い自殺である。
この集団本位的自殺には三つの変種が存在している。
①義務的集団本位的自殺
自殺しなければ社会的に排除もしくは罰せられるような社会的圧力による、慣例として実質的な義務の様相を帯びた自殺。
例:首長の死に伴う臣下や家来の自殺、など
②随意的集団本位的自殺
自ら死を選ぶことが美徳であるような(そうしない場合不道徳と見られるような)社会において、そうした道徳に従って自ら死を選ぶような自殺。こうした道徳は、没個性が社会的に訓練されていること前提であるから、集団本位主義社会に特有の自殺である。
③激しい集団本位的自殺
しばしば集団本位主義的な宗教において見られるような自殺。これまでの二つが、ある行動が社会において持つ道徳的な意味の結果として自殺が選択されるものであったのに対し、この第三の変種は死ぬことそれ自体が、ほかの物事との関係を抜きにして美徳であるとされる。たとえば、個々の生命に実在や意味はなく、個々の生命の外側にあるようなより高次の生命に合一することにのみ意味があるというように考える宗教集団における自殺などがそうである。
義務的集団本位的自殺と、随意的集団本位的自殺は本質的には大きな相違はなく、そのため両者の境界を明確にすることはできない。
一般的に集団本位的自殺は未開社会において多くみられる自殺類型であり、個人の人格が認められ、個人の生きる権利が認められている文明社会においては、その傾向は弱くなっていく。(しかし、文明社会においても、軍隊においては、その集団本位的自殺が比較的多く見られる。)
第二編 第四章 集団本位的自殺
これまでの二章では、社会の統合性の弱さによる個人化、個性化が自殺に帰結するという自己本位的自殺について述べられてきた。しかし、この章では、自己本位自殺と全く逆の理由から生じる自殺の類型として、集団本位的自殺について述べる。
集団本位的自殺とは、集団本位主義の社会―自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、即ち所属している集団におかれているような状態―において起こりやすい自殺類型であり。言い換えれば、集団の統合力が強く、そのために個人の人格が無(無意味)に等しく、よって個人が社会の集合的な要求から守られることがないような社会において生じ易い自殺である。
この集団本位的自殺には三つの変種が存在している。
①義務的集団本位的自殺
自殺しなければ社会的に排除もしくは罰せられるような社会的圧力による、慣例として実質的な義務の様相を帯びた自殺。
例:首長の死に伴う臣下や家来の自殺、など
②随意的集団本位的自殺
自ら死を選ぶことが美徳であるような(そうしない場合不道徳と見られるような)社会において、そうした道徳に従って自ら死を選ぶような自殺。こうした道徳は、没個性が社会的に訓練されていること前提であるから、集団本位主義社会に特有の自殺である。
③激しい集団本位的自殺
しばしば集団本位主義的な宗教において見られるような自殺。これまでの二つが、ある行動が社会において持つ道徳的な意味の結果として自殺が選択されるものであったのに対し、この第三の変種は死ぬことそれ自体が、ほかの物事との関係を抜きにして美徳であるとされる。たとえば、個々の生命に実在や意味はなく、個々の生命の外側にあるようなより高次の生命に合一することにのみ意味があるというように考える宗教集団における自殺などがそうである。
義務的集団本位的自殺と、随意的集団本位的自殺は本質的には大きな相違はなく、そのため両者の境界を明確にすることはできない。
一般的に集団本位的自殺は未開社会において多くみられる自殺類型であり、個人の人格が認められ、個人の生きる権利が認められている文明社会においては、その傾向は弱くなっていく。(しかし、文明社会においても、軍隊においては、その集団本位的自殺が比較的多く見られる。)
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