民主主義と教育 ⑧(第21章~第26章)
民主主義と教育 ⑧ 第21章~第26章
第二十一章 自然科と社会科:自然主義と人文主義
哲学における人間と自然の二元論は自然科学と人文科学への学科の分裂に投影され、後者を過去の文献的記録に過ぎないようなものにしてしまう傾向がある。近代における自然に関する知識を人間の福利に役立てようという試みであった近代科学の発展は、自然と人間の間の関連の回復を予告したが、近代科学の応用は人々一般の利益ではなく、一部の階級的な利益に利用され(つまり、人間の福利のために十分に利用されることはなく)、また、科学的学説の基盤的な役割を成した哲学的な理論的表現は、科学を純粋に物質的なものに関する知であるとし、精神的で非物質的なものとしての人間を区別し、そうでなければ、精神を主観的な幻想に過ぎないとするような傾向を生み出し、結果として、自然と人間(人文的なもの)の間の関連を回復するようなものとはならなかった。ここまで、知識の発達や教育的学科構成についてこれまでの諸章で述べてきたことは、自然と人間の分断を克服し、人間に関する事柄の中で自然科学の教材が占める位置を確認するための試みである。
第二十二章 個人と世界
真の個人主義という考えは、習慣や伝統の権威の支配のゆるみから生じたものであるが、社会の信念を修正し変化させる力の発達を意味したのではなく、各個人の心は他のあらゆるものから孤立して完全なものであるという主張として、哲学的な解釈を与えられたのである。そして、この哲学的な解釈は、社会と個人の関係ついての認識上の問題を生じた。それは、完全に孤立した個人的な意識が、社会の利益のために作用することがいかにして可能であるか、という問題であった。この問題に答えるために苦心して作り上げられた哲学は、教育においては直接に大きな影響を及ぼしはしなかったが、それらの基礎に横たわる仮定は教育においても、学習と管理、個性の自由と他者による統制の分裂としてあらわれた。自由ということについて、理解しておかねばならないことは、自由とは外的な制限からの解放を意味するのではなく、精神的な態度のことを示すのであるが、この精神的態度の発達は純粋に精神的な要因に依るのではなく、探検や実験、応用などの十分な行動の余地という外的な要素も不可欠であるということである。伝統的な習慣によって統制される社会では、画一性が重要視され個人的変異は慣例に一致する程度までしか利用されず、多くは制限されてしまう。しかし、進歩的な社会はそうした個人的変異の中にこそ社会の成長の手段を見出すから、それを非常に重要なものと考える。つまり、伝統的な信念を修正し変化させる力(個人主義が生み出すことのなかったもの)こそが重要なのである。民主主義社会においては、その理想に従って、単に個人主義が意味するような個人の心の他からの完全な孤立(消極的な自由)ではなく、知的自由及び多様な才能や興味の発揮(積極的で自由な発達)を考慮にいれて教育政策を立てていかねばならないのである。
第二十三章 教育の職業的側面
教育において、生活の職業的な側面を認めることに反対する主張には、職業的(実践的で技術的)要素と理論的教養を分化しておこうとする貴族的な理想の保存が伴っている。そして、そうした貴族的理想に基づいて、教養教育を少数の富裕層に、技術的職業教育を大衆に与える職業教育の制度を支持する運動がある。この企ては結果的に、社会的な階級の分裂を永続させることに他ならない。しかし、現在の産業生活は科学(自然を人間のために利用する方法)に非常に依存し、社会的人間関係のあらゆる形態に非常に深く影響をするようなもの(現代の産業形態の特徴、自然を人間的に利用する活動という側面―社会的人間関係と結びついているという側面)であり、産業の教育的な利用は知性や教養の修得に非常に有為でありうる。そのため、貴族的な理想に基づく実践的知と教養の分化は考えにくくなっており、現在の文脈における教育における職業教育のあり方の問題の重要性は、教養と実践の分化ではなく、二つの基本的な問題―即ち、知性が最もよく訓練されるのは、自然を人間的に利用する活動を離れてか、それとも、その活動(職業的要因を含めた教育活動)の中でかということ、および、個人の教養が最もよく獲得されるのは、自己中心の情況の下でか、それとも、社会的情況(職業的要素を含んだ情況)の下でかということ―を一つの特殊な論点に集中するということなのである。
第二十四章 教育の哲学
哲学とは思考の一様式であり、それはすべての思考と同じように経験の対象の不確実なものの中にその起源があり困惑の事態の本質をつきとめ、それを解決するための仮説を構成し行動によってそれを試すことを目標とする。哲学的思考がほかと異なる相違点は、それが取り扱う不確実性が偏在する社会状態やその目標の中に見出され、組織的利害や制度的要求の衝突(生活の様々な利害)にあるという、ことである。対立した諸傾向の調和的再調整をもたらす唯一の方法は、情緒的及び知的性向の修正であるから、哲学は生活の様々な利害の明確な理論的表現であると同時に、利害のよりよい調和をもたらしうるような観点や方法の提示でもある。教育とは、それを通じて必要な変化が成し遂げられるような過程なのであって、何が望ましいかに関する単なる仮説に留まるものではないので、哲学とは計画的に営まれる実践としての教育の理論であるといえるのである。
第二十五章 認識の理論
自由で十分な交流を阻害するような社会の分裂をもつ非民主主義においては、分離されたそれぞれの階級の成員の知性と認識を偏ったものにする。そうした社会では、相対する二元論的な認識論(二元的対立に元づいて物事や経験を認識する方法)に基づいて、いろいろな哲学体系(経験主義者と合理主義者の二元対立に基づく哲学体系、現実主義者と観念論者の二元対立に基づく哲学体系など)が、互いに切り離され一方に偏った経験の断片部分に特徴的な諸点に応じて明確な理論的表現を与えるのである。(即ち、各諸経験は二元的な対立軸のどちらかに分類され、もう一方に分類された類の経験やそうした経験を持つ階級の人々と対立させられてしまう。そして、それぞれの階級の成員の知性と認識は偏ったものになってしまうのだ。)民主主義は原則として、自由な交換(経験相互の自由な交流)、社会の連続性(経験の連続性)を支持するのであるから、それは、(経験間の二元的な対立を前提とするのではなく)ある経験を他の経験に方向や意味を与えるのに役立ちうるようにする方法が知識の中に含まれているのを認める認識論を発展させなければならない。教育上そうした認識論を可能にするものは、学校で獲得される知識と仕事(共同生活の環境において営まれる活動)との関連なのである。
第二十六章 道徳の理論
学校における道徳教育の最も重要な問題は、知識(学習されること一般)と行為(道徳的な行為)の関係に関するものである。一般的な教育課程の中で起こる学習が性格形成に影響を及ぼさないのならば、道徳的目的を、教育全般を統一する最高の目的と考えることは無意味になってしまうからである。もしも、学習と道徳的成長の間に密接な有機的関連がないときには、学習される知識は個人の行動様式を決定する要因として統合されず、道徳的成長には特別な訓練を要することになり、結果として道徳は独立した道学者的な個々別々の徳目の体系となってしまう。このような学習と活動、故に学習と道徳的行動を分離するような理論の背景には、内的な性向や動機(意識的な個人的要素)を外的で物質的な要素としての行動から切り離す理論と、興味からの行動を原理からの行動に対立させるような理論がある。これらの分離は、実際の社会的状況を材料として活用し、実際の社会的目標を持つ連続的な活動としての教育計画によって克服される。なぜなら、このような環境の下では、学校は社会生活の一形態であり、縮図的な社会、即ち学校の塀を越えた社会と密接な相互作用をしているものとなるからである。その意味において、社会生活に有効に参加する能力を発達させるすべての教育は道徳的であり、社会生活のすべての触れ合いから生ずる学習への関心は、本質的な道徳的関心なのである。
道徳教育はそれ自体が独立した特別な徳目の集まりを教授することではなく、社会生活に有効に参加する能力を発達させることである。それは、有効な社会参加や道徳的成長を導く知識の教授であり、そのような学習のことである。そして、そのような道徳教育は、縮図的な社会として、またその外の広い社会と密接な相互作用を有するような環境としての学校においてなされる。つまり、実際の社会状況と結びつき、実際の社会情況において望ましい結果を導くための手段として活動が行われるような教育環境においてなされるのである。
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