民主主義と教育 ⑥ (第11章~14章)
デューイ著 民主主義と教育 (第11章から14章)
第十一章 経験と思考
経験の本質
経験とは、能動的要素と受動的要素を含んでいる。言い換えれば、経験とはある状況における主体的な行動と、その行動が環境において引き起こした変化によって影響を受けることの両方を含んでいる。そして、価値ある経験とはその両者の結びつきへの認識を含む野である。これは、いかなる経験においても能動的な側面と受動的な側面の双方を含んではいるものの、その両者の関連を認識していなければ、価値ある経験とは呼べず、逆にその認識が大きければ大きいだけその経験は価値あるものであると呼ぶことが出来るということである。このように、精神的な認識と肉体的な行動は経験の中において関連しており、そのことで初めて価値を生むのであるが、その点を誤解した伝統的な精神と肉体の二元論に基づいて形作られてきた歴史上の教育はその両者の分離のために様々な良くない結果を生じてきたのである。
経験における熟慮
経験における能動的な側面と受動的な側面について、そしてその両者の関係について触れてきた。述べてきたように、両者の関係の認識自体も重要であるが、その両者の関係をどのように認識しているのか、ということも重要なことであり、それについてここからは述べていく。両者の関係をどのように認識していくのかという点においては、その関係の細部まで認識をすることが、熟慮的な経験であり、重要なことである。即ち、ただただランダムにある行動をある結果が偶然生じるまで続けるのではなく、行動と結果の関係を思考的・理知的な分析によって明確にする努力のことである。そうした後者のような熟考的な経験を前者のような経験と分ける特徴として、不完全な状況の試験的解釈、解釈した状況の諸要素の調査、その結果の試験的仮説の精密化、そしてある結果を得るため行動計画がある。熟慮的な経験においては、様々な知識を用いて能動的な行動を計画し行うわけであるが、知識はそうしたプロセスにおいて役目を担う限りにおいて価値を持ち、その有用性こそが知識の価値の尺度である。
第十二章 教育における思考
学校教育の目的を、よい思考の習慣を形成することであるとしたとき、その教育課程は統一的なものになるはずである。その重要性や学校の役割は理論上認められているところでもある。それにも関わらず、情報の獲得、技能の修得、そして思考の訓練と言ったように目的に応じて教授の方法が分割されているのは、そうした理論が認知されていないことの表れでもある。思考無くして情報や技能は価値を発揮せず、また、情報や技能と独立した形での思考にもそれほどの価値はないのである。故に、そのすべての統一された形での教育が重要なのだ。
統一的な教育環境を構成している教育環境には五つの特徴がある。まず第一に、学校で教えられるものが生徒自身の生活から切り離されたものではなく、現実の生徒の経験と結びついたものであるということ。第二に、取り上げられる現実の経験が、その中に注意深い観察を要するような問題的な要素を含んでいること。第三には、生徒は実際の経験や直接的な観察に基づく資料や、問題解決のために使用する外部からの情報をもっていること。第四にはそうした資料が、生徒が解決すべき問題という文脈や関係に適応されることで、解答ではなく生徒独自の示唆や仮定的な解決策、また観念を導くこと。そして最後に、そうした仮定的な解決策や観念が検証される機会が与えられること、この五つである。
第十三章 教授法の本質
教材と教授法の統一
哲学上に二元論と呼ばれている、精神と物や人の世界を互いに切り離した別々のものであると考える言説の影響力故に、一般的に教授法と教材は互いに切り離されたもの同士であるという考え方がある。教材として学ばれるべきものをそのほかの一切から独立したものとして捉え、そうした教材を人間の精神に容易かつ効率的に学ばせ保持させる方法が教授法であるとする考え方がそれである。しかし、そのような教育思想は誤解を含んでおり、教育はある結果へと向かう経験における思考の過程を通して行われるのであり、教材も教授法もその経験的な過程の一部にすぎず、その両者は本来、経験において統一的である。経験的な過程としての教育において、両者の間の区別は経験の過程をその機能に基づいて分節化した結果生じたものにすぎないのだ。そして、方法とは、教材を最も効率的に利用できるようにする教材の整理のことなのである。
一般的な方法と個人的な方法
方法には、一般的な方法と個人的な方法の二通りの方法がある。前者は個人的な方法を形成していく上で、その基盤を提示するようなもので、最良の成果を確実にするための安定した方法についての知識の体系のことである。しかし、一般的方法は個人に様々な安定した方法の一般的ないくつかの特徴を提示するに過ぎず、それが各個人の情況にそのまま用いられるということではない。個々の情況は常に互いに異なっており独特であるので、あくまでも、個人が各々の情況において望ましい結果を得るための個人的なやり方を補強するにすぎないのである。一方で個人的方法とは、個人が情況から望ましい結果を得るために、実際に用いる方法のことである。個人的方法は、生得的な性向や獲得した習慣や興味によって決定されるものであるので、非常に多様でそのすべての特徴を記述することはできないが、効果的な方法の代表的な特徴は、現在の情況と真摯に向き合うことである率直さ、如何なる考慮や異なる観点をも受け入れる知的歓待を意味する開かれた心、目的が定まっていることを意味する誠実さ、そして、結果を考慮し熟考の末にそれらの結果を行動において承認する責任の四つである。
第十四章 教材の本質
教材は目的を持つ状況の発展過程において対象とされる諸観念からなるものである。
教育の過程の中で、一般的に教材は生徒に対して適切な刺激を与える環境を構成するという仕事に直接関与していると伴に、社会集団の習慣の意味を示すことで、次の社会を構成する生徒たちが社会的に獲得した習慣に意味を与える役割をもっている。こうした一般的な諸点に留意したうえで、教材が持つ役割や意味の分析は教授者の立場と、学習者の立場でそれぞれ行われる必要がある。
教授者の立場の教材
教授者にとって、教材の知識がもつ意義とは、学習者に明確な標準を与えることであり、未熟な学習者に発達の可能性を示すことである。そして、教授者は教授に従事している際に、教材そのものではなく、生徒の現在に必要及び能力と教材の相互作用に注目せねば、教材が生徒の経験から遊離してしまい、結果的に有効な教授活動は妨げられてしまう。
学習者における教材の発展
学習者の経験の中で、教材が発展するその過程には、典型的な三つの段階がある。最初の段階では、知識は直接的な活動と結びついており、ある行動についての熟知として存在している。そこへ、そうした直接的な経験を発展させるような情報によって意義が付加される。教科過程における教材も、生徒たちの直接的な経験から得られた知識により大きな価値を付加するような情報であるべきである。しかし、そうした姿とは相反する形の知識、即ち単なる情報を述べる命題としての知識、を伝えることが教育の理想として掲げられたこともあった。その結果、様々な弊害が生じてしまった。知識の発展過程の最後の段階が、論理的に説明された科学的な形での知識である。
教材は、子どもたちの社会での経験から出発し、社会に蓄積されてきた知識や観念を子どもたちの直接的な経験へと同化させることを通して、子どもたちにおける知識の発展を促すように構成されるべきなのだ。
これで、ジョンデューイの「民主主義と教育」の前半の要約が終わりました…
最後の十四章はかなり要約が雑になってしまいましたが、ねむすぎて全く頭が動いてないのでしょうがないことにします。暇すぎる一日があれば直すこともあるかもしれませんが基本的にそれはしませんので、ご了承ください。
とにかく、あと半分、頑張ろう!
第十一章 経験と思考
経験の本質
経験とは、能動的要素と受動的要素を含んでいる。言い換えれば、経験とはある状況における主体的な行動と、その行動が環境において引き起こした変化によって影響を受けることの両方を含んでいる。そして、価値ある経験とはその両者の結びつきへの認識を含む野である。これは、いかなる経験においても能動的な側面と受動的な側面の双方を含んではいるものの、その両者の関連を認識していなければ、価値ある経験とは呼べず、逆にその認識が大きければ大きいだけその経験は価値あるものであると呼ぶことが出来るということである。このように、精神的な認識と肉体的な行動は経験の中において関連しており、そのことで初めて価値を生むのであるが、その点を誤解した伝統的な精神と肉体の二元論に基づいて形作られてきた歴史上の教育はその両者の分離のために様々な良くない結果を生じてきたのである。
経験における熟慮
経験における能動的な側面と受動的な側面について、そしてその両者の関係について触れてきた。述べてきたように、両者の関係の認識自体も重要であるが、その両者の関係をどのように認識しているのか、ということも重要なことであり、それについてここからは述べていく。両者の関係をどのように認識していくのかという点においては、その関係の細部まで認識をすることが、熟慮的な経験であり、重要なことである。即ち、ただただランダムにある行動をある結果が偶然生じるまで続けるのではなく、行動と結果の関係を思考的・理知的な分析によって明確にする努力のことである。そうした後者のような熟考的な経験を前者のような経験と分ける特徴として、不完全な状況の試験的解釈、解釈した状況の諸要素の調査、その結果の試験的仮説の精密化、そしてある結果を得るため行動計画がある。熟慮的な経験においては、様々な知識を用いて能動的な行動を計画し行うわけであるが、知識はそうしたプロセスにおいて役目を担う限りにおいて価値を持ち、その有用性こそが知識の価値の尺度である。
第十二章 教育における思考
学校教育の目的を、よい思考の習慣を形成することであるとしたとき、その教育課程は統一的なものになるはずである。その重要性や学校の役割は理論上認められているところでもある。それにも関わらず、情報の獲得、技能の修得、そして思考の訓練と言ったように目的に応じて教授の方法が分割されているのは、そうした理論が認知されていないことの表れでもある。思考無くして情報や技能は価値を発揮せず、また、情報や技能と独立した形での思考にもそれほどの価値はないのである。故に、そのすべての統一された形での教育が重要なのだ。
統一的な教育環境を構成している教育環境には五つの特徴がある。まず第一に、学校で教えられるものが生徒自身の生活から切り離されたものではなく、現実の生徒の経験と結びついたものであるということ。第二に、取り上げられる現実の経験が、その中に注意深い観察を要するような問題的な要素を含んでいること。第三には、生徒は実際の経験や直接的な観察に基づく資料や、問題解決のために使用する外部からの情報をもっていること。第四にはそうした資料が、生徒が解決すべき問題という文脈や関係に適応されることで、解答ではなく生徒独自の示唆や仮定的な解決策、また観念を導くこと。そして最後に、そうした仮定的な解決策や観念が検証される機会が与えられること、この五つである。
第十三章 教授法の本質
教材と教授法の統一
哲学上に二元論と呼ばれている、精神と物や人の世界を互いに切り離した別々のものであると考える言説の影響力故に、一般的に教授法と教材は互いに切り離されたもの同士であるという考え方がある。教材として学ばれるべきものをそのほかの一切から独立したものとして捉え、そうした教材を人間の精神に容易かつ効率的に学ばせ保持させる方法が教授法であるとする考え方がそれである。しかし、そのような教育思想は誤解を含んでおり、教育はある結果へと向かう経験における思考の過程を通して行われるのであり、教材も教授法もその経験的な過程の一部にすぎず、その両者は本来、経験において統一的である。経験的な過程としての教育において、両者の間の区別は経験の過程をその機能に基づいて分節化した結果生じたものにすぎないのだ。そして、方法とは、教材を最も効率的に利用できるようにする教材の整理のことなのである。
一般的な方法と個人的な方法
方法には、一般的な方法と個人的な方法の二通りの方法がある。前者は個人的な方法を形成していく上で、その基盤を提示するようなもので、最良の成果を確実にするための安定した方法についての知識の体系のことである。しかし、一般的方法は個人に様々な安定した方法の一般的ないくつかの特徴を提示するに過ぎず、それが各個人の情況にそのまま用いられるということではない。個々の情況は常に互いに異なっており独特であるので、あくまでも、個人が各々の情況において望ましい結果を得るための個人的なやり方を補強するにすぎないのである。一方で個人的方法とは、個人が情況から望ましい結果を得るために、実際に用いる方法のことである。個人的方法は、生得的な性向や獲得した習慣や興味によって決定されるものであるので、非常に多様でそのすべての特徴を記述することはできないが、効果的な方法の代表的な特徴は、現在の情況と真摯に向き合うことである率直さ、如何なる考慮や異なる観点をも受け入れる知的歓待を意味する開かれた心、目的が定まっていることを意味する誠実さ、そして、結果を考慮し熟考の末にそれらの結果を行動において承認する責任の四つである。
第十四章 教材の本質
教材は目的を持つ状況の発展過程において対象とされる諸観念からなるものである。
教育の過程の中で、一般的に教材は生徒に対して適切な刺激を与える環境を構成するという仕事に直接関与していると伴に、社会集団の習慣の意味を示すことで、次の社会を構成する生徒たちが社会的に獲得した習慣に意味を与える役割をもっている。こうした一般的な諸点に留意したうえで、教材が持つ役割や意味の分析は教授者の立場と、学習者の立場でそれぞれ行われる必要がある。
教授者の立場の教材
教授者にとって、教材の知識がもつ意義とは、学習者に明確な標準を与えることであり、未熟な学習者に発達の可能性を示すことである。そして、教授者は教授に従事している際に、教材そのものではなく、生徒の現在に必要及び能力と教材の相互作用に注目せねば、教材が生徒の経験から遊離してしまい、結果的に有効な教授活動は妨げられてしまう。
学習者における教材の発展
学習者の経験の中で、教材が発展するその過程には、典型的な三つの段階がある。最初の段階では、知識は直接的な活動と結びついており、ある行動についての熟知として存在している。そこへ、そうした直接的な経験を発展させるような情報によって意義が付加される。教科過程における教材も、生徒たちの直接的な経験から得られた知識により大きな価値を付加するような情報であるべきである。しかし、そうした姿とは相反する形の知識、即ち単なる情報を述べる命題としての知識、を伝えることが教育の理想として掲げられたこともあった。その結果、様々な弊害が生じてしまった。知識の発展過程の最後の段階が、論理的に説明された科学的な形での知識である。
教材は、子どもたちの社会での経験から出発し、社会に蓄積されてきた知識や観念を子どもたちの直接的な経験へと同化させることを通して、子どもたちにおける知識の発展を促すように構成されるべきなのだ。
これで、ジョンデューイの「民主主義と教育」の前半の要約が終わりました…
最後の十四章はかなり要約が雑になってしまいましたが、ねむすぎて全く頭が動いてないのでしょうがないことにします。暇すぎる一日があれば直すこともあるかもしれませんが基本的にそれはしませんので、ご了承ください。
とにかく、あと半分、頑張ろう!
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