民主主義と教育① (1章から3章)
要約 デューイ 民主主義と教育 第一章から第三章
第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
教育とは
生命は、不断に生命を維持しようと、活動を繰り返している。同様に、人間という生命体が集合した社会というものを一つの生命と考えた時、社会もまた生命一般と同様に、自己を存続するべく活動をしている。そして、その自己存続のための活動をして教育がある。社会は教育を通して、社会の習慣や価値観や文化を受け継いで存続させていくのである。
教育の過程
教育は、最も広い意味においてはコミュニケーションを通して行われる。(一般的に会話の中で使われるコミュニケーションの意味とは違い、人間の間の相互のやり取りをすべて含むような広い意味でのコミュニケーションというような意味で使われている)基本的な形での教育は社会への参加を通して行われていく。未成熟の存在は、成熟した社会へ参加をし、そこでのコミュニケーションを通じて、社会における人々の共通の目的や価値、習慣を自身のものとしていくのだ。
制度的な教育
以上に述べたもっとも基本的な形での教育は、社会への参加に付随的な形での教育であった。そうした教育に加えて、異なる教育の形が存在する。それが学校教育に代表される。制度化された形での教育である。社会が発展し、複雑化することに応じて、直接参加による付随的な教育によってのみ社会の文化や習慣、目的を存続させることが困難となった文明社会においてこの形の教育はその需要を増した。制度化された教育の中では、言語化された抽象的なことがらの教授が成される。両者は文明社会の存続において車輪の両輪というわけである。しかし、一方で両者の根本的な異質性は社会にとって脅威となりうる。制度的な教育は、言語を中心とし抽象的であるがゆえに、現実の社会生活と乖離が生じやすいのだ。そうした乖離は、文明の複雑化に伴って一層その深みを増している。
第二章 社会の機能としての教育
社会的環境
社会において教育が行われる際、価値化や習慣の教授は、物体を手渡すような直接的な方法で行われるのではなく、社会的環境を通して行われる。社会的環境によって教育がなされるというのは、他者の期待や賛否、態度が人間の態度の形成に影響力を持つということである。それは、動物が何かを学習するように快楽などによって導かれるのではなく、学習者が社会集団に共有されている価値などを身体化し、それに応じて態度を形成して行くことを通じて行われる。
特殊な環境としての学校
複雑化する社会に対応すべく、生じた制度化された教育としての学校は、特殊な社会的環境を作りだすことで教育を行う。すなわち、社会的環境の中にある複雑な価値を恣意的に統制し、その環境で生活を行うことで、より特定の性向を身体化しやすく整理した社会環境こそが学校という特殊な環境である。特殊な環境としての学校教育の特殊な機能は3つに分類される。第一は複雑な文明を細かく分化して漸進的な教育の段階を構成すること。第二に、社会的環境一般に含まれる余計な価値や習慣を排除し、重要なものを純粋な形で伝えること。そして、第三には、社会環境の中の様々なサブソサエティの間の諸要素所習慣を相対化し、釣り合いをとることで、教育への参加者が自身の生まれた社会を越えた多様な社会と接触をする機会を得られるようにすること、である。
第三章 指導としての教育
指導とは
指導に対する考え方として、受動者に対して主体者が望む行為を起こさせるべく働きかけること、という考え方があるが、これは指導としての教育が避けるべき考え方である。指導とは、指導の対象者が成そうとしていることを、十分に成し遂げさせるべく助けることである。即ち、子どもたちが何に対して活動のエネルギーを使おうとしているのかを理解することなくして、教育を行うことはできないのである。もちろん、文頭で述べた指導の考えを適用して被指導者の行動を短期的にはコントロールできるかもしれないが、その強制がその後の発達に与える影響を考慮できていない場合がある。
社会的指導の諸様式
社会的指導には、二種類がある。一つは、上からの強制力を用いた指導であり、もう一つは、社会的環境を媒介した指導である。前者を考える際には、物理的な結果と心理的な結果を分けて考える必要がある。物理的に望ましい結果を得ることが出来たとしても、心理的には全く望ましい結果を得ることができておらず、長期的には好意的な結果につながらないばあいがある。
後者は、より主体性を尊重した統制である。社会的環境において、人間は状況の解釈や目的において、共通の理解を求められる。そうした共通の理解に基づいて、他者の行動と適合させるために自身の行動を統制をすることが必要なのである。そして、後者の統制は主体的で内的統制であるがゆえに、永続的な効果を持つ。故に、外部からの指導ではなく、社会的環境における他者との共通の理解を媒介とした内的統制を達成させることこそが教育の任務なのである。
第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育
教育とは
生命は、不断に生命を維持しようと、活動を繰り返している。同様に、人間という生命体が集合した社会というものを一つの生命と考えた時、社会もまた生命一般と同様に、自己を存続するべく活動をしている。そして、その自己存続のための活動をして教育がある。社会は教育を通して、社会の習慣や価値観や文化を受け継いで存続させていくのである。
教育の過程
教育は、最も広い意味においてはコミュニケーションを通して行われる。(一般的に会話の中で使われるコミュニケーションの意味とは違い、人間の間の相互のやり取りをすべて含むような広い意味でのコミュニケーションというような意味で使われている)基本的な形での教育は社会への参加を通して行われていく。未成熟の存在は、成熟した社会へ参加をし、そこでのコミュニケーションを通じて、社会における人々の共通の目的や価値、習慣を自身のものとしていくのだ。
制度的な教育
以上に述べたもっとも基本的な形での教育は、社会への参加に付随的な形での教育であった。そうした教育に加えて、異なる教育の形が存在する。それが学校教育に代表される。制度化された形での教育である。社会が発展し、複雑化することに応じて、直接参加による付随的な教育によってのみ社会の文化や習慣、目的を存続させることが困難となった文明社会においてこの形の教育はその需要を増した。制度化された教育の中では、言語化された抽象的なことがらの教授が成される。両者は文明社会の存続において車輪の両輪というわけである。しかし、一方で両者の根本的な異質性は社会にとって脅威となりうる。制度的な教育は、言語を中心とし抽象的であるがゆえに、現実の社会生活と乖離が生じやすいのだ。そうした乖離は、文明の複雑化に伴って一層その深みを増している。
第二章 社会の機能としての教育
社会的環境
社会において教育が行われる際、価値化や習慣の教授は、物体を手渡すような直接的な方法で行われるのではなく、社会的環境を通して行われる。社会的環境によって教育がなされるというのは、他者の期待や賛否、態度が人間の態度の形成に影響力を持つということである。それは、動物が何かを学習するように快楽などによって導かれるのではなく、学習者が社会集団に共有されている価値などを身体化し、それに応じて態度を形成して行くことを通じて行われる。
特殊な環境としての学校
複雑化する社会に対応すべく、生じた制度化された教育としての学校は、特殊な社会的環境を作りだすことで教育を行う。すなわち、社会的環境の中にある複雑な価値を恣意的に統制し、その環境で生活を行うことで、より特定の性向を身体化しやすく整理した社会環境こそが学校という特殊な環境である。特殊な環境としての学校教育の特殊な機能は3つに分類される。第一は複雑な文明を細かく分化して漸進的な教育の段階を構成すること。第二に、社会的環境一般に含まれる余計な価値や習慣を排除し、重要なものを純粋な形で伝えること。そして、第三には、社会環境の中の様々なサブソサエティの間の諸要素所習慣を相対化し、釣り合いをとることで、教育への参加者が自身の生まれた社会を越えた多様な社会と接触をする機会を得られるようにすること、である。
第三章 指導としての教育
指導とは
指導に対する考え方として、受動者に対して主体者が望む行為を起こさせるべく働きかけること、という考え方があるが、これは指導としての教育が避けるべき考え方である。指導とは、指導の対象者が成そうとしていることを、十分に成し遂げさせるべく助けることである。即ち、子どもたちが何に対して活動のエネルギーを使おうとしているのかを理解することなくして、教育を行うことはできないのである。もちろん、文頭で述べた指導の考えを適用して被指導者の行動を短期的にはコントロールできるかもしれないが、その強制がその後の発達に与える影響を考慮できていない場合がある。
社会的指導の諸様式
社会的指導には、二種類がある。一つは、上からの強制力を用いた指導であり、もう一つは、社会的環境を媒介した指導である。前者を考える際には、物理的な結果と心理的な結果を分けて考える必要がある。物理的に望ましい結果を得ることが出来たとしても、心理的には全く望ましい結果を得ることができておらず、長期的には好意的な結果につながらないばあいがある。
後者は、より主体性を尊重した統制である。社会的環境において、人間は状況の解釈や目的において、共通の理解を求められる。そうした共通の理解に基づいて、他者の行動と適合させるために自身の行動を統制をすることが必要なのである。そして、後者の統制は主体的で内的統制であるがゆえに、永続的な効果を持つ。故に、外部からの指導ではなく、社会的環境における他者との共通の理解を媒介とした内的統制を達成させることこそが教育の任務なのである。
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