徒然日記 ゆる~く行きます 2016年10月19日

徒然日記 10月19日

今日も平日です。何かをまとめて書くには一日に学んだことが一貫性のあるようなものではないので、今日も徒然ととりとめもなく、今日したことをゆる~く書いていこうと思います。

まず、今日も小説の書き方についての本を読みました。1章だけさらっと読みました。
第1章は、アイディアと構成ということで、構成パターンの基本的な流れ、構成の発想につながる日常的習慣、そして、登場人物の描き方やに登場人物に求められる要素などを具体的な例を示しながら教えてくれました。著者の方は、忠臣蔵がすきすぎて、第一章の半分くらいは他の作品と比較して忠臣蔵がいかに優れているかについて述べていました。でも、著者の示す忠臣蔵の良さというものは、象徴の効果や小説ならではの余計な描写の効果などなど納得のいくものばかりで、忠臣蔵テーマにした様々な作品に触れてみたいと思わせてくれました。
この章で自分としてぐっと来たのは、小説は人間を描くものであるという、著者なりの小説の根本への言及でした。小説はあくまでも現実と似ているようで現実ではないもう一つの世界への招待状です。なので、そこには完全無欠な人間を描くこともできます。どこを切ってもポジティブな情報しか出てこないような人間を描くことだってできるわけです。でも、そんな小説は決して面白くはならないと、著者は言います。「小説は書くのも読むのも人間である」という著者の言葉にその理由は凝縮されているようにも思います。小説を書くという作業がが人間を描く作業であるというのは、ほめられるような一面があれば、不完全さを感じさせる一面もある、また、成熟と同時に青さを残しているようなそんな生き生きとして存在としての人間を描く作業であるということです。話の筋道を描くときも、登場人物に命を与えるときも、その根本を忘れてはならないということです。
ここで終わればいいのですが、小説は現実と似ている現実ではない世界を描くことである説くことに少し加えていこうと思います。「小説は現実より奇なり」という言葉があります。意味は読んで字のごとくです。すなわち、小説は現実をはみ出ていいし、むしろはみ出なければ面白くはない、ということです。シンプルな言葉ですが、これも小説の根本の一つなんです。
たとえば、登場人物を描く作業があります。そして、そうして描かれる登場人物の中には、周囲にいたら自分の生きる社会空間にとって危険でありうるような人物も描かれています。社会全体に危険を及ぼすような人格の登場人物もいるでしょう。そう言ったもしも現実であったら危険であるような存在を描く、「危険性をはらむ冒険」は小説を書く作業にとって非常に重要であると著者はいいます。小説は、現実に類似しているが現実よりも奇である非現実を描くことです。その言葉を頭の片隅に置きながら、感覚を研ぎ澄ませて言葉を紡いで行くことが小説を書くということなのだと思います。


加えて、今日は軽くて適当な文化人類学の本もさらっと読みました。内容はどういった側面が文化人類学的なのかはわかりませんが、とても面白いものでした。
テーマとしては、前の章と似ていて、境界線を曖昧にする存在を嫌う人間でした。
突然ですが、自分の体の輪郭は、どこまでだかわかりますか?どこまでが自分の体で、どこからがそうでないのでしょう。例えば、髪の毛が抜けてそれでもなお頭についていたとします。その髪の毛は自分の体の一部ですか?
紛れもなく、髪の毛は抜けるまでは自分の体の一部でした。抜けたらそれはもう自分の体の一部ではないのでしょうか?髪の毛じゃなくてもいいんです。鼻水でも、フケでも、髭でも構いません。それらは体の一部ですか?
一般的に、今挙げた様々例は、自分の体の境界線を曖昧にするものの例です。一般的にひとは、自分の境界線を曖昧にする存在を忌避します。だから、体についたフケや鼻水や髪の毛を「きれいにする」というとき、それはそれらを体から切り離して、距離を置くということになります。
「きたない」や「きれい」ということをそう言う視点から分析したことはなかったので、非常に面白い視点を提供してもらったな、と感じています。
今後も適当に読み進めていきたいですね。

適当な勉強のことばかり書いていますが、今日はデュルケムの自殺論やマルクスの共産党宣言にも少し触れることができました。自殺論は序論だけですが、思ったよりも読めるぞ、という感触だったので今後もすこしずつ確実に読んでいきたいと思います。

それでは、おやすみなさい!

書き終わったはずだが、頭の中には、一つの疑問が浮かんだ。
その疑問は頭をぐるぐると回り、離れない。
デューイはこんなようなことを言っていた。
教育は現状を変革していく経験的な過程である、と。
現状から望ましい結果を得るために思考を用いて計画を立て活動を行って行く中に学習があると。そして、自己欺瞞に陥るような知識だけを無意味に集めるような学習を行ってはならない、と。
果たして、今日の自分の学習は、何のための学習であっただろうか。
自分の学習は、現状の観察分析に始まり、望ましい結果を得るための過程であっただろうか。

速読技術を習得するための読書(なんのための速読技術か、という深め方の可能性は残しているが)。
単純な学への欲求の発露としての古典への挑戦。
後者がデューイに褒められるような学びかどうかはわからないが、一呼吸を置いて考えれば、目的がないわけではなかった。

しかし、勉強をしている最中にその目的意識が頭の中にあったわけではないし、目的それ自体が何かにつながるような、現状を変革するための手段としての何かであるわけではない。
この目的意識というものは、自分が時間を活用していく中で、もっと深く考えなければならないものであると感じた。

改めて、おやすみなさい!!!

コメント

なにが読まれているのでしょうか

シンボリック相互作用論とはなにか

主観/客観図式 デカルト

R. マートン 社会理論と社会構造 第4章 社会構造とアノミー