デュルケム 自殺論 要約(というか読書ノート)
今日からぼちぼちデュルケムも読んでいきたいと思います。
読解力が低いので、要約(読書ノート)の質もあまり正確なものではないと思いますが、まとめていきます!
このノートは、読了しなおしたり、内容について新たな理解や、自分の勘違いを見つけるごとに更新していこうと思いますので、僕は死んでしまうまで、つまり今から大体90年後くらいまでは、暫定的なものにすぎません!笑
デュルケム自殺論
第一編 非社会的要因
第一章 自殺と精神病理的状態
第一編で、デュルケムは自殺が非社会的なものかどうかを検証すべく、自殺についてその原因として可能的な要因について検証していく。
まず、第一章では、精神病理的状態をその最初の検証対象とする。
まず、自殺が精神病理であるとした考え方として二通りを上げる。
・自殺それ自体がある固有の精神病理的特徴によって引き起こされているというもの
・自殺は特定の一つの精神的病ではなく複数の複合的な精神的病理によって起こるものである、とするもの
デュルケムはまず、後者を言説としての厳密性や根拠にかけるとして否定する。
前者について、もしも自殺に必ず帰結するような精神病理的症状が存在するとすれば、精神病理学的において”偏執狂”とよばれるものであろうとデュルケムは仮定する。
いわゆる偏執狂とは、ある特定の行為に対して不条理な欲望を突発的に抱くこと以外を除いては正常な状態のことである。
しかし、この偏執狂というものは実際に存在するのかということについては如何なる積極的な証拠はない。即ちそれがあることもないこともどちらも証明できないのである。
また、一般的に偏執狂として認識されているものも、もっと一般的な精神異常状況の一つの表れとしてにすぎず、ある特殊な傾向に対するもののみととらえることはできない。つまり自殺を突発的な衝動で行ってしまう偏執狂のような人間がいたとしても、その自殺は、自殺と特定に結び付いた自殺狂というようなものではなく、精神異常を持った人間が持つ異常な傾向性がたまたま自殺に方向づけられた結果に過ぎないのである。
このほかにも精神的な病理としての自殺が考えられ得るケースはありうるが、どの形の自殺においても、自殺を恣意的に病理として定義することに依って病理と主張するのであり、客観的な病理性が認められるわけではない。
よって、ここまでの結論としては、自殺を特定の精神的な病理であるとすることはできないものの、精神的な病理、狂気の下で行われる自殺はありうる。しかし、それによって社会における自殺のすべてを説明することは不可能である、ということになった。
次にデュルケムは、精神病理的状態と、正常の状態の中間的状態である、精神衰弱と自殺の関係、また、アルコール依存から生じる精神異常と自殺の関係を統計的に論じるが、その両者の間に相関は認められない。
よって、精神病理と自殺の間にはっきりとしたつながりは認められず、よって精神病理としての自殺は限られた一部の自殺を説明し得るということにすぎない、という結論がみちびかれる。
読解力が低いので、要約(読書ノート)の質もあまり正確なものではないと思いますが、まとめていきます!
このノートは、読了しなおしたり、内容について新たな理解や、自分の勘違いを見つけるごとに更新していこうと思いますので、僕は死んでしまうまで、つまり今から大体90年後くらいまでは、暫定的なものにすぎません!笑
デュルケム自殺論
第一編 非社会的要因
第一章 自殺と精神病理的状態
第一編で、デュルケムは自殺が非社会的なものかどうかを検証すべく、自殺についてその原因として可能的な要因について検証していく。
まず、第一章では、精神病理的状態をその最初の検証対象とする。
まず、自殺が精神病理であるとした考え方として二通りを上げる。
・自殺それ自体がある固有の精神病理的特徴によって引き起こされているというもの
・自殺は特定の一つの精神的病ではなく複数の複合的な精神的病理によって起こるものである、とするもの
デュルケムはまず、後者を言説としての厳密性や根拠にかけるとして否定する。
前者について、もしも自殺に必ず帰結するような精神病理的症状が存在するとすれば、精神病理学的において”偏執狂”とよばれるものであろうとデュルケムは仮定する。
いわゆる偏執狂とは、ある特定の行為に対して不条理な欲望を突発的に抱くこと以外を除いては正常な状態のことである。
しかし、この偏執狂というものは実際に存在するのかということについては如何なる積極的な証拠はない。即ちそれがあることもないこともどちらも証明できないのである。
また、一般的に偏執狂として認識されているものも、もっと一般的な精神異常状況の一つの表れとしてにすぎず、ある特殊な傾向に対するもののみととらえることはできない。つまり自殺を突発的な衝動で行ってしまう偏執狂のような人間がいたとしても、その自殺は、自殺と特定に結び付いた自殺狂というようなものではなく、精神異常を持った人間が持つ異常な傾向性がたまたま自殺に方向づけられた結果に過ぎないのである。
このほかにも精神的な病理としての自殺が考えられ得るケースはありうるが、どの形の自殺においても、自殺を恣意的に病理として定義することに依って病理と主張するのであり、客観的な病理性が認められるわけではない。
よって、ここまでの結論としては、自殺を特定の精神的な病理であるとすることはできないものの、精神的な病理、狂気の下で行われる自殺はありうる。しかし、それによって社会における自殺のすべてを説明することは不可能である、ということになった。
次にデュルケムは、精神病理的状態と、正常の状態の中間的状態である、精神衰弱と自殺の関係、また、アルコール依存から生じる精神異常と自殺の関係を統計的に論じるが、その両者の間に相関は認められない。
よって、精神病理と自殺の間にはっきりとしたつながりは認められず、よって精神病理としての自殺は限られた一部の自殺を説明し得るということにすぎない、という結論がみちびかれる。
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