民主主義と教育 ⑦ 第15章~第20章
デューイ著 民主主義と教育 ⑦(第15章~第20章)
ちょっとペースに焦りを感じたので、今日からは細かいことは気にせずにババっと一気に進めていきます。
第十五章 教育課程における遊びと仕事
生徒の学習の発展の最初の段階は、具体的で実際の社会活動に直接的にかかわる事柄をいかに成すかを学習することに含まれるものであることを前章で知った。このことの教育的な意味は、社会活動の一般的な典型とみなされる作業を教育において利用するということである。そうした典型を教育において利用することで作りだされる、社会活動と学習が重なり合うような環境でこそ、技術や知識の習得が行われるのである。
心理学的には、諸結果に対する配慮を意識的に含んだ活動を仕事といい、活動の延長線上の更なる活動の発展として目標を捉えるような活動を遊びという。言い換えれば、活動それ自体が目標となるような活動が遊びである。つまり、遊びとは活動の無益さを意味するのではなく、目的や結果を活動に対してどのように位置付けているかが問題になる。
社会が複雑化するにつれて、結果が活動から切り離され、重要視される傾向にあり、それとともに、活動は遊びから仕事に転化していく。しかし、文頭で述べたような活動と結びついた教育のように、遊びの態度を大いに含んだ仕事としての学習も重要である。
第十六章 地理および歴史の意義
経験は、その本性として、それ自体の中に最初に意識的に気づかれているものを遥かに超える意味をもっている。そのような関連、即ち大きな意味を意識させると、経験の意味が増すのである。最初どんなに些細に感じられた経験も意味の広がりや経験に気づくことを通して際限なく豊かな意味を持つことが出来るのだ。この発展こそが前章で述べた知識の発展段階の第二段階目であり、直接的な経験と結び付いた知識が情報によってその意味を拡大していく過程である。故に、この経験の発展をもたらすものこそ、他者との健全な通信(コミュニケーション)である。健全な通信には共通な関心が含まれるため、一方は熱心に伝えたがり、一方は熱心にそれを聞きたがるような関係における 通信である。この健全な通信は、相手が文字道理に再現可能となるようにきちんと記憶させるように情報を伝えるような通信とは対照的に異なるのである。
学校教育において、地理と歴史は個人の経験の意味を拡大させるための二つの重要な手段である。歴史は人間的意味を、地理は自然的な関連を明らかにするが、この両者は同一の生きた全体の二側面なのだ。それは、共同生活をする人間の歴史とは、偶然的な背景としてではなく、発達の材料および媒介としての自然(地理的条件)の中で進行するからである。
第十七章 教育課程における科学
科学とは、経験の中の認識的要素の結実であり、物事や信念の根拠や根源や帰結を明らかにするような叙述を目指す。そしてその目標が達せられれば、叙述は論理的性格を持つ。これは、前章で述べてきた知識の発展段階の最終段階である。
科学が教育課程において持つ機能は、それが社会にとって持つ機能と同様であり、経験を特定の背景から解放することで、好みや偶然によって曇らされない知的展望を開くことである。抽象作用、一般化、明確な公式かなどの科学的論理性の主要な特徴はすべてこの機能に関連しており、ある観念をそれが生じた特定の背景から解放し、一般的で広い関連を与えることで、誰にとっても自由に使えるようなものにするのだ。そして、このような過程を経て、科学は全般的な社会進歩の道具となるのである。
第十八章 教育的価値
価値には二つの意味がある。一つは、それ自体が本質的に価値を持つという意味での価値であり、味わうような価値である。もう一方は、比較によって生じるような価値である。前者は絶対的なものであるが、後者は相対的なモノである。教育における価値は、常に前者のような価値である。教育課程における各教科は、それ自体が絶対的な価値を持つような教科と、それ以上の目的への貢献という意味での価値を持つ教科のように分類されてはならないのである。つまり、各教科はどこかの段階でそれと関わる個人にとって、審美的性質を持たねばならないのである。そして、各学科が持つ道具的、派生的な価値の唯一の判定基準とは、経験の直接的で本質的な価値への貢献であり、経験が持つ本質的な価値の気づきへと個人を導くことである。それに反して各学科が別個の価値を持ち、教育課程を分立する諸価値の寄せ集めの合成物であると捉える傾向は社会集団や階級の分立の結果である。民主主義社会集団における教育の任務とは、様々な関心が経験の本質的な価値への気づきに導くように共同するように、各関心(学科)の孤立状況と戦うことである。
第十九章 労働と閑暇
前章で述べた教育価値の文化の問題の中でも、理論的な教養と実践的な有用性の分裂が最も深刻である。両者の分裂は本質的な分裂のように思えるが、実は社会的歴史的に構成されてきたものである。かつてのギリシャでは労働者と閑暇を持て余す知識階級が明確に分化しており、実践的有用性の知は前者のもの、理論的な教養は後者のものとするような考えが築き上げられ、それが現在にまで少なからず尾を引いているのである。しかし、民主主義社会においては、理論も実践もすべての人に重要なものである。故に、この二元的な対立を排除し、すべての人にとって理論的教養や思考が自由な実践の指針となり、閑暇が労働の責任を引き受けたことの報酬となるような教育課程を構成することこそが民主主義社会の教育の問題なのである。
第二十章 知的学科と実際的学科
かつてギリシャ人は、彼らの生活を習慣や伝統によって統制することに限界を感じ、結果として哲学的思索にその解決を求め、権威の根源を理性的基準とし、頼りにならないと決めつけていた習慣と経験を結び付けることで、経験と理性を対立させ、理性が高められれば一層経験は蔑まれるようになった。その結果、感覚的観察や身体的活動をわずかしか用いない方法や科目が教育課程において過大評価をされることにもなった。
しかし、近代に入って、純粋に理性的な概念は具体的経験の成果を積み込むことで安定をさせなければならないと主張し、理性的概念に攻撃を加えた。しかし、ここで仮定されていた経験というものは、経験の本質的な能動的・情動的側面を無視した単なる受動的な認識作用としてみなされていなかったため、以前の書物中心主義を多少取り除く程度の成果しか上げることはなく、徹底的な改造を成し遂げるにはいたらなかった。
心理学や産業の諸方法、そして科学における実験的な方法の発展によって、経験は元来実践的なもの(行うこと、行った結果を受けること)であって、認識的なものではないとする経験の概念が可能となる。この新しい経験の概念においては、行動(経験)とは思考(理性的側面)が示すことをその内容に吸収し、最終的に思考を検証された知識に導くことが出来るものであると理解された。それによって、経験は実験的になり、現実離れした観念的能力であった理性は実験的な経験(という概念)を通じて活動と結びつき、活動を豊かな意味を持つものにするための手段を意味するようになるのだ。
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