民主主義と教育 ⑤ 第8章から⒑章

デューイ著 民主主義と教育 ⑤ (第八章から第十章)


第八章 教育の諸目的

この章では、目的という概念の本質的な意味を考察し、それを教育に適応する。

目的の本質
目的とは本質的には、現状の観察から導き出されるあらゆる可能的な結果のうちの、望ましい結果のことであり、そうした意味での目的は、その結果に至るまでの段階的な発展の過程を示唆する。この意味において、目的というものは、外部から与えられるものではなく、あくまでも現状の生命を取り巻く環境の観察に基づき、その生命の内部から生じるものである。また、外部から与えられる目的のように静的なものではなく、現状の変化に応じて目的から手段へと変化し、また新たな目的が生じるような動的なものなのである。即ち、目的とは目的であると同時に手段でもあるのだ。

教育における目的
目的の本質的な分析を教育との関連で語るのであれば、教育における本質的な目的も、外的に行動を規定するようなものではなく、教育を受ける個人の現状の分析に基づいた可能的で望ましい結果のことであり、そこに至る過程を示唆するようなものであるべ気である。その意味において、教育の目的は、「教育者の目的」ではなく、「教育を受ける個人の活動力」の望む目的である。教育の現状におけるマクロで一般的で抽象的な目的は、それ自体として活動の外的な目的されるべきではなく、被教育者個人の活動力や内的な目的との関連を考える指標として認識されるべきなのだ。また、そうした一般的で抽象的な目的は複数が同時に存在するが、それぞれが同一の社会に対する異なった見方を提供しているだけであるから、相互に競争的な見方をせず、並列的で協力的な見方をするのがよい。

第九章 目的としての自然発達と社会的に有為な能力

教育には、教育そのものの目的と呼べるような、即ちその下に教育の活動のすべてを従属させるような絶対的な目的は存在しない。一般的で抽象的な目的も、社会に対する異なった視点からの切り出し方にすぎず、そのため同時に複数が共存できる。抽象的な目的や一般的な目的はこれまでの教育の歴史の中で社会の変化に応じて様々なものが述べられてきたし、そうした目的に応じて教育的な慣行が構成されてきた。しかし、それはそれぞれの社会における強調の問題でしかなく、それらのいずれも絶対的な目的とはなり得ない。
第九章では、これまでの歴史の中で、掲げられ慣行を構成してきた3つの一般的・抽象的目的を紹介し、その目的を絶対的なものであると仮定したがゆえに陥った問題を示す。

自然的発達という目的
現状の社会制度や構造への批判や抵抗を背景に、かつて、ルソーをはじめとする思想家が自然的発達を教育や成長発展の目標として主張した。その主張は、以前の章にも出てきたように、自然に従った発展が絶対的に正しく、個人の自由で自然な発展を限りなく尊重すべきであるというものであった。こうした自然的発達の重要視は、部分的には正鵠を射た主張であり、有益な視点であることは間違いない。しかし、自然を目的として絶対化してしまったがゆえに、成長における環境との相互作用によって形成される要素を軽視してしまい、個人と社会の協調という視点が脱落したのである。その結果、社会に有為な能力という目的と衝突をすることになった。

社会的に有為な能力という目的
自然を絶対的に尊重するという自然的発達という目的に対する批判として、自然ではなく社会にとって有為な能力の形成こそが目的であるべきという主張がなされたことがあった。それが第二の抽象的一般的目的である。しかし、この主張は自然的発展を重要視する主張とは反対に、社会の秩序を重視するあまり個人の経験的な豊かさを軽視してしまう結果となってしまった。

経験を豊かにするものとしての教養という目的
社会を重視する反面個人を軽視する第二の抽象的一般的な目的への批判として、第三の一般的目的として生じたのが、個人の経験を豊かにするものとして教養を重要視する考えであった。この主張は、個人の経験の豊かさを「育成されたもの」「成熟したもの」ととらえるため、ありのままであること、即ち「未熟であること」を尊重する自然を目的とする考えと対立する。加えて、前に述べた個人の充実と社会に有為な能力の重要視という対立がある。この対立は、現代の社会が解消せねばならない課題の一つである。

第十章 興味と訓練

興味と訓練
興味とは、二つの事柄の間にあるもの、いいかえればある事柄からある事柄へ至るまでの過程のことである。つまり、興味とは将来の可能的で望ましい結果への関心であり、人間にその結果に至るための段階的な過程を導き出させるようなものである。一方で訓練とは、現在の情況と可能的で望ましい結果の間の段階的な過程を貫徹するための忍耐力や努力を継続させる力である。

興味の教育における意味
興味は、分断してしまいがちな精神と精神の対象としての事物の世界を一つに統合する。一般的に精神はそれ自体として独立したものであり、特定の対象に適用されることなどを通して知識を生じるものであると考えられていた。言い換えれば、特定の抽象的な形で存在する「学ぶべきもの」に精神を作用させることに依って知識が生じると考えられていた。つまり、学ぶべきものも精神も経験から独立した形で存在しているとされていた。しかし、興味の概念を導入した教育哲学においては、学ぶことは、望ましい結果を得るための過程において起こる。即ち、人間はある結果を得たいがために、その結果を得るために必要なことを学ぶのだ。つまり、知識はその過程に組み込まれた、経験と密接にかかわるものとなるのである。この学習のモデルにおいては、精神は対象から独立したものではなく、望ましい結果を得るための過程に知的に従事することと同様のものであると考えられる。こうして経験と精神が結合され統一体となる。加えて、この学習モデルにおいては、教材(学ばれるもの)も経験と不可分なものとなる。それは、先にも述べた通りに、学習は望ましい結果を得る手段として学ばれるのであり、経験的な過程の中に組み込まれているのである。

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