民主主義と教育 ② 第4章
デューイ著 民主主義と教育 ② (第4章)
第四章 成長としての教育
成長する力
子どもとは、しばしば未成熟という言葉のもとに語られることが多いが、未成熟とはどのような意味であろうか。一般的には、標準的なものであり成熟と呼ばれる状態に至っていない、消極的な方法で語られる。しかし、未成熟とは、「成長する力」即ち、可能力や潜在力のあらわれである。成長することが出来る状態こそが、未成熟ということの意味で或る。
依存性と可塑性
成長する力には2つの構成要素がある。一つは依存性、そしてもう一つが可塑性である。依存性というと、未成熟という言葉と同様に、消極的に語られることが多いわけだが、依存性というのは、同時に社会的素質のことでもある。いうなれば、依存性は、社会参加の素地を成している。その依存性によって社会に参加し、順応し、社会的な能力を身に付けて成長していくことができるのである。
もう一方の可塑性とは一般的に物質に言われるような可塑性とが異なっている。成長の要素としての可塑性は、自身の性向を維持しつつそれを発展させて環境に適応していく能力のことを言うのである。人間には、他の動物に較べて生得的に多くの本能的傾向が或る。言い換えれば、一定の本能的反射によって比較的単純な行動をするのに比べて、人間には多様な反応の可能性がある。よって人間は、そうした多様な性向を環境に適して組み合わせ、制御をする術を学ばねばならない。可塑性とは、情況の変化に応じて、性向の諸要素を変更したり、組み合わせたりして多様な反応を行う能力のことである。
習慣
人間は可塑性を利用し、習慣を獲得する。即ち、ある環境に適応し、習慣によって環境を変更し、自身の目的達成のための手段とするのだ。その意味で習慣とは、可塑性によって得られた、環境を変更する能力である。この過程には、二つの習慣が存在している。一つは、環境に変更を及ぼす習慣。もう一つは、慣れとしての習慣である。人間は環境のすべてを変更するのではない。そのため、一部の変更が行われるその下地となる習慣が存在する。それが、慣れとしての習慣である。広く一般的な環境に”慣れ”、その上で目的達成のために、環境を変更する、それが環境を変更する能力としての習慣の過程である。誤解をしてはならないのは、この習慣の過程には、知性を伴うことである。常に、目的がありその目的のために環境を制御しようと知性を働かすのである。そこから知性の働きが抜け落ちてしまえば、環境への隷属であり、消極的な”悪い習慣”の陥ってしまうことになるのだ。
教育と成長
成長する能力を使用し、成長していく過程を教育という。そして、この教育にはその過程の外に目的やゴールは存在せず、それ自体が目的である。言い換えれば、何かに向かって成長すること、教育がおこなわれるのではなく、成長すること、教育を行うこと、それ自体が目的であるのだ。そして、成長とは生命に特有なものであるから、その過程に終わりはない。教育は生涯を通じて発展の過程にあるのだ。それを踏まえた学校教育の目的とは、子どもたちの中に連続的な発展への欲求を形成することであり、連続的発展の手段を与えることである。
第四章 成長としての教育
成長する力
子どもとは、しばしば未成熟という言葉のもとに語られることが多いが、未成熟とはどのような意味であろうか。一般的には、標準的なものであり成熟と呼ばれる状態に至っていない、消極的な方法で語られる。しかし、未成熟とは、「成長する力」即ち、可能力や潜在力のあらわれである。成長することが出来る状態こそが、未成熟ということの意味で或る。
依存性と可塑性
成長する力には2つの構成要素がある。一つは依存性、そしてもう一つが可塑性である。依存性というと、未成熟という言葉と同様に、消極的に語られることが多いわけだが、依存性というのは、同時に社会的素質のことでもある。いうなれば、依存性は、社会参加の素地を成している。その依存性によって社会に参加し、順応し、社会的な能力を身に付けて成長していくことができるのである。
もう一方の可塑性とは一般的に物質に言われるような可塑性とが異なっている。成長の要素としての可塑性は、自身の性向を維持しつつそれを発展させて環境に適応していく能力のことを言うのである。人間には、他の動物に較べて生得的に多くの本能的傾向が或る。言い換えれば、一定の本能的反射によって比較的単純な行動をするのに比べて、人間には多様な反応の可能性がある。よって人間は、そうした多様な性向を環境に適して組み合わせ、制御をする術を学ばねばならない。可塑性とは、情況の変化に応じて、性向の諸要素を変更したり、組み合わせたりして多様な反応を行う能力のことである。
習慣
人間は可塑性を利用し、習慣を獲得する。即ち、ある環境に適応し、習慣によって環境を変更し、自身の目的達成のための手段とするのだ。その意味で習慣とは、可塑性によって得られた、環境を変更する能力である。この過程には、二つの習慣が存在している。一つは、環境に変更を及ぼす習慣。もう一つは、慣れとしての習慣である。人間は環境のすべてを変更するのではない。そのため、一部の変更が行われるその下地となる習慣が存在する。それが、慣れとしての習慣である。広く一般的な環境に”慣れ”、その上で目的達成のために、環境を変更する、それが環境を変更する能力としての習慣の過程である。誤解をしてはならないのは、この習慣の過程には、知性を伴うことである。常に、目的がありその目的のために環境を制御しようと知性を働かすのである。そこから知性の働きが抜け落ちてしまえば、環境への隷属であり、消極的な”悪い習慣”の陥ってしまうことになるのだ。
教育と成長
成長する能力を使用し、成長していく過程を教育という。そして、この教育にはその過程の外に目的やゴールは存在せず、それ自体が目的である。言い換えれば、何かに向かって成長すること、教育がおこなわれるのではなく、成長すること、教育を行うこと、それ自体が目的であるのだ。そして、成長とは生命に特有なものであるから、その過程に終わりはない。教育は生涯を通じて発展の過程にあるのだ。それを踏まえた学校教育の目的とは、子どもたちの中に連続的な発展への欲求を形成することであり、連続的発展の手段を与えることである。
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