民主主義と教育 ③ (第5章~第6章)
民主主義と教育 ③ 第5章~第6章
今回から、少し要約の方法を変えていこうと思う。というのも、これまでの要約は若干冗長になりすぎたということと、誤解を恐れてすぎるあまり細部にこだわり結果として多くの時間を費やすことになってしまった。その反省から、今後は各章なるべく簡潔に、これまで以上に要所要所をまとめていく。
結果として、記事の信頼性や正確性が低下するやもしれませんが、ご了承お願いします。
第五章 準備、開発、形式陶冶
この章は、教育の過程とは連続的な成長の過程であり、成長や教育はそれ自体が目的であるというこれまでの章でデューイが繰り返し述べてきた考えを中心とし、その視点から教育に対する、著者の意見に対立3つの教育観を紹介し、批判する。その3つの教育観が、準備説、発達説、形式陶冶説である。
準備説
準備説とは、教育や成長とは社会の正式な成員となるための準備の過程であるという考え方である。これは、明らかにデューイの考えと反している。すなわち、教育や成長に執着を定め、教育の価値に限界を設けているのである。これに対して、デューイは準備説に基づく教育はいくつかの望ましくない結果を導くとしてこれを批判している。まず、教育があくまでも未来のみのためと考えられるために現在の子どもたちの生と乖離しているために、子どもたちは教育への原動力を失う。それどころか、そのような現在の子どもたちの生に関わりを持たない教育は、むしろ避けられ、躊躇されてしまう。そのため、結果として子どもたちの動機づけに、外的な報酬や懲罰などを用いざるを得なくなってしまう。また、社会の成員としての平均的な基準との比較のみが注目されるため、子どもたちの可能性や独自の能力が無視されてしまうのである。
開発説
もう一つの教育観は、開発説とよばれるものである。この教育観では、教育の過程を発達の課程というものの、発達を連続的な成長過程とは考えずに、潜在能力を一定の方向に向かって、開発していく過程と考える。デューイが前の章で述べているように、成長の方向づけを行うのは、成長している存在であり、成長とは生命の性向を環境との相互作用によって強化してく過程であった。つまり、そこに外的な目標は存在しない。しかし、この開発論は、成長の絶対的な目標を仮定し、その具体的顕れを子どもたちが目指すべき形として外的に規定する。
この開発論の論者として、代表的な二つの異なる考えがある。一つはヘーゲルにより提起され、もう一つはフレーベルによって提起された。フレーベルは、成長の絶対的目標の具体的顕れを抽象的で超越的な象徴体系であると述べ、ヘーゲルは社会の諸制度がそれであると考えた。
形式陶冶説
第三の教育観は、形式陶冶説である。この形式陶冶説とは、成長を潜在的ないくつかの諸能力が訓練によって洗練され、陶冶されていくことであると考える。しかしながら、デューイはこの考えに対して、その考えの中で想定されている諸能力は架空のものであるとしてこの考えを否定する。人間の諸能力は際限なく細分化されていおり、その行動はそうした諸要素の組み合わせである。つまり、活動や能力の一つ一つは常にその対象と結びついているのである。故に、ある特殊な洗練がその他のすべての洗練に通ずるような一般的な能力は存在しないのだ。
第六章 保守および進歩としての教育
第六章臭いても、前章と同様にデューイの教育観を中心としてそれに相反する教育観への批判を通し、デューイの主張する教育観の意味を主張する。
精神形成としての教育
精神形成論は、人間の生得的な内的な力を無視し、教育の目的をものによって精神を形成することにあるとする。この理論の仮定にある考えとしては、精神とは外部からの作用に対する反作用によって表象として形成され、ある表象はそれ以降に形成される表象に影響を与えると説く。すなわち、この考えをもとにする教育観では、教育において重要なものは外部からの精神への作用、すなわち教材の内容であり、そして、段階的に望ましい精神形成を行うための適切な順序である。教材とは、過去の積み上げによって生じるものである。故に、この教育観は過去から、前章で批判した開発論が未来の目標に向かって行われる教育を標榜していたのに対して、過去から形成しようと試みる教育観である。しかしながら、この教育観は生物の中にある活動力を現在の環境に用いることで精神を能動的に構成・再構成していく能力を無視している。
反復・回顧論
精神形成論と同様に、過去から形成する教育として挙げられるのが、反復・回顧論である。この理論は成長の過程を、人間の歴史の反復であると捉える。即ち、未成熟の状態は原始の時代と対応しており、過去の精神遺産の産物に基づいた教育を通して成熟した現在と対応している状態までただしい順序で発展していくと考える。しかしながら、この理論では、人間の進化的発展を説明できない。なぜなら、この教育観、成長間では、発展はあくまでも現在の状態に至る過程であり、その先への成長は想定されていないからである。しかし、実際、発展というものは、現在に対応する状態に至るまでの時間が短縮されてきたことに依って生まれてきたのであり、したがって、未成熟の人間を教育することの意味とは、彼らを現在の状態から解放し、新たな状態を築かせることにあるのだ。人間が過去から受け継いできたものは、現在という環境によって影響を受けることで変化をするし、それによって環境もまた変化をする。そして、過去からの知識や過去の遺産はそれ自体に学ぶべき価値があるのではなく、現在とかかわりを持つ場合においてのみ教育的価値をもつのである。故に、この反復・回顧論の教育観も過去を必要以上に重要視し、現在を軽視する点で否定される。
改造としての教育
これまで述べてきたデューイによる様々な教育理論の批判によって、デューイの教育観はより鮮明に浮かび上がる。デューイにとって教育や成長とはいたって内的な作用で、それは人間の活動力による環境との相互作用であり、経験を絶え間なく再構成乃至改造することである。そしてその結果、経験は絶えずその意味を増していく。具体的には、経験が再構成され、その意味が増幅することを通して、人間の諸活動は相互の関連や連続とともに経験されるようになり、一つの活動は以後の諸活動を方向づける形で関連を生じるようになるのである。
また、以後の章でも述べるようであるが、こうした個人の経験の改造は、社会の経験の改造にもつながっていく。個人を教育するということは、社会を教育するということなのである。
今回から、少し要約の方法を変えていこうと思う。というのも、これまでの要約は若干冗長になりすぎたということと、誤解を恐れてすぎるあまり細部にこだわり結果として多くの時間を費やすことになってしまった。その反省から、今後は各章なるべく簡潔に、これまで以上に要所要所をまとめていく。
結果として、記事の信頼性や正確性が低下するやもしれませんが、ご了承お願いします。
第五章 準備、開発、形式陶冶
この章は、教育の過程とは連続的な成長の過程であり、成長や教育はそれ自体が目的であるというこれまでの章でデューイが繰り返し述べてきた考えを中心とし、その視点から教育に対する、著者の意見に対立3つの教育観を紹介し、批判する。その3つの教育観が、準備説、発達説、形式陶冶説である。
準備説
準備説とは、教育や成長とは社会の正式な成員となるための準備の過程であるという考え方である。これは、明らかにデューイの考えと反している。すなわち、教育や成長に執着を定め、教育の価値に限界を設けているのである。これに対して、デューイは準備説に基づく教育はいくつかの望ましくない結果を導くとしてこれを批判している。まず、教育があくまでも未来のみのためと考えられるために現在の子どもたちの生と乖離しているために、子どもたちは教育への原動力を失う。それどころか、そのような現在の子どもたちの生に関わりを持たない教育は、むしろ避けられ、躊躇されてしまう。そのため、結果として子どもたちの動機づけに、外的な報酬や懲罰などを用いざるを得なくなってしまう。また、社会の成員としての平均的な基準との比較のみが注目されるため、子どもたちの可能性や独自の能力が無視されてしまうのである。
開発説
もう一つの教育観は、開発説とよばれるものである。この教育観では、教育の過程を発達の課程というものの、発達を連続的な成長過程とは考えずに、潜在能力を一定の方向に向かって、開発していく過程と考える。デューイが前の章で述べているように、成長の方向づけを行うのは、成長している存在であり、成長とは生命の性向を環境との相互作用によって強化してく過程であった。つまり、そこに外的な目標は存在しない。しかし、この開発論は、成長の絶対的な目標を仮定し、その具体的顕れを子どもたちが目指すべき形として外的に規定する。
この開発論の論者として、代表的な二つの異なる考えがある。一つはヘーゲルにより提起され、もう一つはフレーベルによって提起された。フレーベルは、成長の絶対的目標の具体的顕れを抽象的で超越的な象徴体系であると述べ、ヘーゲルは社会の諸制度がそれであると考えた。
形式陶冶説
第三の教育観は、形式陶冶説である。この形式陶冶説とは、成長を潜在的ないくつかの諸能力が訓練によって洗練され、陶冶されていくことであると考える。しかしながら、デューイはこの考えに対して、その考えの中で想定されている諸能力は架空のものであるとしてこの考えを否定する。人間の諸能力は際限なく細分化されていおり、その行動はそうした諸要素の組み合わせである。つまり、活動や能力の一つ一つは常にその対象と結びついているのである。故に、ある特殊な洗練がその他のすべての洗練に通ずるような一般的な能力は存在しないのだ。
第六章 保守および進歩としての教育
第六章臭いても、前章と同様にデューイの教育観を中心としてそれに相反する教育観への批判を通し、デューイの主張する教育観の意味を主張する。
精神形成としての教育
精神形成論は、人間の生得的な内的な力を無視し、教育の目的をものによって精神を形成することにあるとする。この理論の仮定にある考えとしては、精神とは外部からの作用に対する反作用によって表象として形成され、ある表象はそれ以降に形成される表象に影響を与えると説く。すなわち、この考えをもとにする教育観では、教育において重要なものは外部からの精神への作用、すなわち教材の内容であり、そして、段階的に望ましい精神形成を行うための適切な順序である。教材とは、過去の積み上げによって生じるものである。故に、この教育観は過去から、前章で批判した開発論が未来の目標に向かって行われる教育を標榜していたのに対して、過去から形成しようと試みる教育観である。しかしながら、この教育観は生物の中にある活動力を現在の環境に用いることで精神を能動的に構成・再構成していく能力を無視している。
反復・回顧論
精神形成論と同様に、過去から形成する教育として挙げられるのが、反復・回顧論である。この理論は成長の過程を、人間の歴史の反復であると捉える。即ち、未成熟の状態は原始の時代と対応しており、過去の精神遺産の産物に基づいた教育を通して成熟した現在と対応している状態までただしい順序で発展していくと考える。しかしながら、この理論では、人間の進化的発展を説明できない。なぜなら、この教育観、成長間では、発展はあくまでも現在の状態に至る過程であり、その先への成長は想定されていないからである。しかし、実際、発展というものは、現在に対応する状態に至るまでの時間が短縮されてきたことに依って生まれてきたのであり、したがって、未成熟の人間を教育することの意味とは、彼らを現在の状態から解放し、新たな状態を築かせることにあるのだ。人間が過去から受け継いできたものは、現在という環境によって影響を受けることで変化をするし、それによって環境もまた変化をする。そして、過去からの知識や過去の遺産はそれ自体に学ぶべき価値があるのではなく、現在とかかわりを持つ場合においてのみ教育的価値をもつのである。故に、この反復・回顧論の教育観も過去を必要以上に重要視し、現在を軽視する点で否定される。
改造としての教育
これまで述べてきたデューイによる様々な教育理論の批判によって、デューイの教育観はより鮮明に浮かび上がる。デューイにとって教育や成長とはいたって内的な作用で、それは人間の活動力による環境との相互作用であり、経験を絶え間なく再構成乃至改造することである。そしてその結果、経験は絶えずその意味を増していく。具体的には、経験が再構成され、その意味が増幅することを通して、人間の諸活動は相互の関連や連続とともに経験されるようになり、一つの活動は以後の諸活動を方向づける形で関連を生じるようになるのである。
また、以後の章でも述べるようであるが、こうした個人の経験の改造は、社会の経験の改造にもつながっていく。個人を教育するということは、社会を教育するということなのである。
コメント
コメントを投稿