はじめの言葉 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 9月 04, 2016 読者になってくださった皆さんへ おはようございます!こんにちは!こんばんは! さっともです! 読者は想定していませんが、自分のためにブログをはじめました! このブログは、自分が日ごろ考えていることや、読書を踏まえた書評などを自由に気ままに、”徒然と”綴っていこうと思っています。 もしも偶然足を踏み入れることがあったのなら、目を通して、このページを媒介に議論を酌み交わすことができれば幸いかなと思います。 それでは、よろしくお願いします。 2016年9月3日 さっとも リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
シンボリック相互作用論とはなにか 5月 08, 2017 おはこんにちばんは! 昨日の夜から風邪をひいてしまい、今日は一日休養を取っていました。 体調管理には気をつけましょうね! 基本的にベットに横になって体を休めていたわけなんですが、いろいろ動画を見てしまい、時間を若干無駄にしてしまったなぁという罪悪感もありつつ、少しだけ読書をしました。 少し前に、ブルーマーの書いたシンボリック相互作用論という本を買ったのですが、読んでいなかったので、読んでみることにしました。この本を自分が買った目的はシンボリック相互作用論は社会をどのように見るのか、シンボリック相互作用論って何なのか、を知りたいがゆえに購入した本なので、それについて書いてある最初の一章のみ、しかも冒頭の一節だけを集中的に読みました。残りの部分は気が向いたら読もうと思います。 ブルーマー曰く、シンボリック相互作用論は3つの前提に立脚しているそうです。 『第一の前提は、人間はものごとが自分に対して持つ意味にのっとって、そのものごとに対して行為をするというものである。(中略)第二の前提は、このようなものごとの意味は、個人がその仲間と一緒に参加する社会的相互作用から導き出され、発生するということである。第三の前提は、このような意味は、個人が、自分の出会ったものごとに対処する中で、その個人が用いる解釈の過程によってあつかわれたり、修正されたりするということである。』 つまり、人間の行為は行為を行う対象のものごとが行為者にとって持つ意味に則って行動を行う。そして、ものごとのそうした意味はものごとに内在する普遍的な意味や真の意味といったような性質のものではなく、自分自身や他者との相互作用を通して定義されたり、修正されたりする、ということです。更にもう少し踏み込めば、このことが意味するのは、人間の行為は他者や自分自身との社会的相互作用を通じて(に応じて)形成されていく、ということです。 そして、相互作用が人間の行為を形成する、というこの過程は『指示と解釈』という二つの過程を含んでいます。これはつまり、ある人の行為は他者に対してどのように行動すべきかを指示し、他方では指示をされた人はその指示を解釈し、自身の行動を決定する、という二つの過程が相互作用を通じた行為の形成には含まれているということです。また、こうした解釈はすでに確立されたものごとの意味を単に適用するとい... 続きを読む
主観/客観図式 デカルト 2月 06, 2018 何度も読んだことがある解説書を読んでいるはずなのに、「理解したぞッ!」という感覚は唐突に訪れるものなんだなぁ、とふと思いました。 デカルトの「方法的懐疑」というものが一般的な懐疑と何が違うのか、とか。 デカルトの「主観/客観図式」が何を意味しているのか、とか。 前者の二つの懐疑の違いは、ヘレニズムの懐疑主義とデカルトを比較してみるとはっきりわかります。ヘレニズムの懐疑はアタラクシア-魂の平静-に至るためには、確実だといえることなんてほとんどない現実の問題に頭を悩ませるよりも、そうした事柄に対してエポケー-判断停止-をすることが大切だ、というように考える懐疑でした。一方で、デカルトは「疑いようのないもの」とは何だろうか、それを探すためにすべてを疑いました。つまり、この懐疑はあくまでも「疑いようのないもの」を見つけるための方法/手段なのです。だから、デカルトの懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれているんです。 後者の「主観/客観図式」というのは、世界をどのように見るか、その見方の一つです。細かいことは省略しますが、デカルトは方法的懐疑の末、「考えるわたし」だけは疑いようのないものである、と結論を出しました。そして、「神の誠実」を前提にしながら、その疑いようのない考えるわたしにとって、明らかなもの-明証的なもの-はすべて確かに存在している、というように考えるようになります。ここに、一つの世界観の転換があります。デカルトは、懐疑以前において世界が自分よりも先に存在をしていて、そこに自分があとから存在するようになった、と考えていたはずです。つまり、世界の存在が自分の存在の根底に前提として存在しているわけです。ですが、懐疑を経てその関係は逆転します。世界は、自分の以前に存在するものではなく、私が認識し思考することを通じて初めて存在するようになったのです。私が認識する限りにおいてはじめて世界は確かに存在する、ということです。「考えるわたし」が中心となって世界が広がっているのです。 そして、デカルトはこの「考えるわたし」を「前に置かれたもの」「根底に置かれたもの」を意味する「主観」と呼ぶようになりました。この時同様に、認識や思考の対象である世界は「後に置かれたもの」を意味する「客観」と呼ばれるようになったのです。このような世界の見方が「主観/客観図式」という... 続きを読む
R. マートン 社会理論と社会構造 第4章 社会構造とアノミー 3月 23, 2018 第 4 章 社会構造とアノミー まず、この論文の主要な目的はこれまで社会的逸脱に対して学術界から支持されてきた「フロイト的前提」(社会の構造は、本来、人間の固定した生得的な衝動の自由な表現を抑制するもので、そのため、人間は自由を得ようとして周期的にこの抑制に大っぴらな反抗を試みる、という前提―構造によって押さえつけられた人間の生得的な欲求の欲求不満が引き起こす、構造に対する反抗が「逸脱的行動」であるという心理学に基づく前提)に立つ心理学的な説明を批判し、それとともに社会的逸脱に対して社会文化的構造に着目した原因分析を行うことにある。(心理学的説明に基づくと、逸脱は社会構造に関係なく社会に一様に、且つ、特定の集団などに偏在することなく存在することになる。) (余談であるが、社会的逸脱を客観的な存在と考える基礎づけ主義的な存在論と、それに対して量的なデータを用いて原因分析を行おうという姿勢は典型的な実証主義的認識論に立脚している。 1930 年代に書かれた論文であることを考えるとそれは当然であるが、読了に当たってはそうした認識論を視野に入れつつ読み進めることが、効果的な批判や建設的な議論を行うにあたっては重要なステップであるといえる。) 第一節 文化的目標の型式と制度的規範 まず、社会的逸脱やアノミーを考えるに当たって二つの社会文化的構造の諸要素の中でも 2 つがより重要である。一つは文化的に価値を置かれている「目標」であり、もう一つはそうした目標を達成するにあたって用いられる手段に対する文化的・制度的な「規範」である。後者はどのような手段が社会的文化的に正当であるか、と規定する規範である。また、正当な手段はその効率性などからは独立している。(たとえ効率性が高いからと言って特定のな手段―暴力的手段など―が常に正当化されている、と言うことはない。) そして、この二つの要素の間には常にバランスがとられているということはなく、それぞれがそれぞれのダイナミックスをもっている。それ故にある社会では「目標」のみがアンバランスに強調され、一方で「規範」がなおざりにされてしまっている。逆もまた然りである。 「目標」ばかりがアンバランスに強調され、「規範」が影を潜めているような社会では、人々は目標を達成するためには手段を選ばなくなりそのため、効率性を重... 続きを読む
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