”価値のあるもの”について
最近、いろいろな映画を近しい友人と見る機会が多い。
そのうちの一つとして、自分自身がものすごくひきつけられ、ものすごく傾倒している作品がエヴァンゲリオンだ。
この作品は、アニメーションが原作で、それに付随する形で漫画やゲームなど様々な媒体で描かれており、興味深いのはそのそれぞれで内容が微妙に、ゲームなどに至っては全くもって異なっているということだ。
現在も、前四部作の映画作品のうちの第三作品目までが劇場公開をされている。
四作目が非常に楽しみなのと同時に、個人的にはオリジナルの中のオリジナルである、テレビアニメーションシリーズを鑑賞していないので、時間を見つけてそちらを楽しみたいところではある。
エヴァンゲリオンは、媒体としての多様性とそれぞれの内容の非統一性を一度忘れて、その作品としての基本的な設定のみを考えても非常に複雑でわかりにくい。
個人的には、なんとなく細かく見ていくと矛盾に思えるような点や、腑に落ちない点はたくさん見つかるのではないかと思っている。
ここまで、ものすごく没頭している割には、作品についてポジティブな情報がほとんどない。それでも、なぜだろう、やっぱりどこかとても惹きつけられてしまう。
なんとも不思議な作品だ。
ただ、この不思議は別にエヴァンゲリオンに限ったことじゃない。
これまでいろいろな作品を友人と見てきたわけだが、作品を細かく見ていくと納得できないような部分や、矛盾点はしばしば見つかるし、時には陳腐な内容というか、特別その作品に限って取り立てて驚くべき点が見つからないこともある。
しかし、それでもなんとなく、この作品にはやっぱり価値があるんじゃないか、と感じさせる魔力のようなものがある。(ような気がする)
なぜなんだろうか。
少し前に、構築主義という言葉を、社会学の勉強をしている時に勉強した。
この言葉の意味は、社会問題などは、”問題にされる”ことを通して初めて”問題”となる、という立場である。この立場に立って社会問題を考えるとき、その社会問題都やばれるそのことがらそれ自体に問題とされる要素が本質的に存在しているとは考えず、その問題が問題と定義される背景にはどのような力が働いているのか、言い換えれば、どのような社会的状況がその問題を問題にしているのか、に注目することになる。
自分はこの構築主義が、社会問題に対して適応されている場面しか今のところ見たことはないのだけれど、これはきっと社会のあらゆる流れや出来事に言えることなのだろう。この社会において、”価値があるもの”もきっと同じように形作られるのではないだろうか。
つまり、”価値がある”と定義され、語られることを通して、”価値がある”ことになるのであり、故にその物自体に本質的で普遍的な価値があるわけではない、ということではないだろうか、ということだ。
さて、冒頭で述べたエヴァンゲリオンやそのほかの”価値がある作品”の話に戻るわけだが、これらの作品もそれ自体には特別な価値があるわけではないのではないだろうか。”価値がある”と語られることを通して、”価値”を持つようになり、その価値が、自分を含む鑑賞者を不思議な引力でもって惹きつけているのではないのだろうか。
そう思ってもやっぱり社会が僕をそうした作品に惹きつけようとする力を、無意味なものと無視することはできないあたりは、社会というものが持つ、有無を言わせない力のその強さを感じる。気づいていても、社会の圧力から外に抜け出すことは難しいのだ。
さて、少し脱線してしまったが、価値があると定義され語られることによって、ものが価値を持つようになるとすれば、そうした作品と向き合うときに、何に着目すればいいのだろうか。それは、社会問題に対する構築主義の立場と同じだ。つまり、作品それ自体はもちろんだが、それ以上に作品が”価値があるもの”として語られるようになる社会的文脈に注目することだ。
社会のどのような特徴がこの作品に価値を付与することを助長したのか。
社会がこの作品に与えている意味とは何なのか。
作品が映し出す社会とは社会のどのような側面なのか。
こうした疑問に答えるように作品を鑑賞していくことが重要である、ということだろう。
今後、様々な作品を鑑賞する際は、こうした立場で鑑賞を楽しんでいきたいと思う。
参考文献
苅谷剛彦、濵名陽子、木村涼子、酒井朗著 教育の社会学 有斐閣アルマ
そのうちの一つとして、自分自身がものすごくひきつけられ、ものすごく傾倒している作品がエヴァンゲリオンだ。
この作品は、アニメーションが原作で、それに付随する形で漫画やゲームなど様々な媒体で描かれており、興味深いのはそのそれぞれで内容が微妙に、ゲームなどに至っては全くもって異なっているということだ。
現在も、前四部作の映画作品のうちの第三作品目までが劇場公開をされている。
四作目が非常に楽しみなのと同時に、個人的にはオリジナルの中のオリジナルである、テレビアニメーションシリーズを鑑賞していないので、時間を見つけてそちらを楽しみたいところではある。
エヴァンゲリオンは、媒体としての多様性とそれぞれの内容の非統一性を一度忘れて、その作品としての基本的な設定のみを考えても非常に複雑でわかりにくい。
個人的には、なんとなく細かく見ていくと矛盾に思えるような点や、腑に落ちない点はたくさん見つかるのではないかと思っている。
ここまで、ものすごく没頭している割には、作品についてポジティブな情報がほとんどない。それでも、なぜだろう、やっぱりどこかとても惹きつけられてしまう。
なんとも不思議な作品だ。
ただ、この不思議は別にエヴァンゲリオンに限ったことじゃない。
これまでいろいろな作品を友人と見てきたわけだが、作品を細かく見ていくと納得できないような部分や、矛盾点はしばしば見つかるし、時には陳腐な内容というか、特別その作品に限って取り立てて驚くべき点が見つからないこともある。
しかし、それでもなんとなく、この作品にはやっぱり価値があるんじゃないか、と感じさせる魔力のようなものがある。(ような気がする)
なぜなんだろうか。
少し前に、構築主義という言葉を、社会学の勉強をしている時に勉強した。
この言葉の意味は、社会問題などは、”問題にされる”ことを通して初めて”問題”となる、という立場である。この立場に立って社会問題を考えるとき、その社会問題都やばれるそのことがらそれ自体に問題とされる要素が本質的に存在しているとは考えず、その問題が問題と定義される背景にはどのような力が働いているのか、言い換えれば、どのような社会的状況がその問題を問題にしているのか、に注目することになる。
自分はこの構築主義が、社会問題に対して適応されている場面しか今のところ見たことはないのだけれど、これはきっと社会のあらゆる流れや出来事に言えることなのだろう。この社会において、”価値があるもの”もきっと同じように形作られるのではないだろうか。
つまり、”価値がある”と定義され、語られることを通して、”価値がある”ことになるのであり、故にその物自体に本質的で普遍的な価値があるわけではない、ということではないだろうか、ということだ。
さて、冒頭で述べたエヴァンゲリオンやそのほかの”価値がある作品”の話に戻るわけだが、これらの作品もそれ自体には特別な価値があるわけではないのではないだろうか。”価値がある”と語られることを通して、”価値”を持つようになり、その価値が、自分を含む鑑賞者を不思議な引力でもって惹きつけているのではないのだろうか。
そう思ってもやっぱり社会が僕をそうした作品に惹きつけようとする力を、無意味なものと無視することはできないあたりは、社会というものが持つ、有無を言わせない力のその強さを感じる。気づいていても、社会の圧力から外に抜け出すことは難しいのだ。
さて、少し脱線してしまったが、価値があると定義され語られることによって、ものが価値を持つようになるとすれば、そうした作品と向き合うときに、何に着目すればいいのだろうか。それは、社会問題に対する構築主義の立場と同じだ。つまり、作品それ自体はもちろんだが、それ以上に作品が”価値があるもの”として語られるようになる社会的文脈に注目することだ。
社会のどのような特徴がこの作品に価値を付与することを助長したのか。
社会がこの作品に与えている意味とは何なのか。
作品が映し出す社会とは社会のどのような側面なのか。
こうした疑問に答えるように作品を鑑賞していくことが重要である、ということだろう。
今後、様々な作品を鑑賞する際は、こうした立場で鑑賞を楽しんでいきたいと思う。
参考文献
苅谷剛彦、濵名陽子、木村涼子、酒井朗著 教育の社会学 有斐閣アルマ
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