速読多読 第六弾 送り火
速読多読 第六弾 送り火 重松清著
2016年12月24日読了時間 6時間
わかってます。6時間はもはや速読でもなんでもありません。普通に読んでました。
斎藤孝さんは速読は小説の方が楽だといっていました。なぜなら、主題のみに注目をしてそれにかかわる部分だけを切り取って読むことがしやすいからだそうです。
でも、いいわけがましいんですが、それって僕にはなかなか難しいことだなぁと気が付きました。主題に関係するもののみを読めばいいとはいえ、何が主題なのかを読む前に知っておくこともなかなか難しいですし、小説ってなんとなく描かれている出来事以上の抽象的な意味があると思うので、ストーリーとしての内容は速読でも拾えるのかもしれないですが、そういう抽象的な部分は時間をかけて呼んでいかないとわからないのではないか、と思うからです。と、いい訳をさせておいてください。笑
内容について
小説の内容はどうやって書くのが正解なのかわからないので、とりあえず口語体のまま紡いでいくことにします。今日2冊目の物語も重松清さんの作品でした。だから、今日はものがたりデーであると同時に重松清デーでもあったということですね。
送り火は、富士見線という私鉄沿線の街を場面にした、少しファンタジックな短編集の一冊になっています。そうしたいくつかのお話の中で共通して描かれているテーマは、「大切な存在との関係」かなと思いました。かなりざっくりしててすみません。僕がここで言う大切な存在というのは、「家族」であったり、「恋人」であったり、「友人」であったり、はたまた「過去の自分自身」であったり様々です。そうした大切なものとどう向き合っていくのか、それらが持つ意味とは何か。そうした問いを登場人物の日常の描写を通して読者に投げかけるようなそんな内容になっています。
自分自身も読んでいて、家族って何だろう、夫婦って何だろう、親子って何だろう、と様々考えさせられると同時に、そうした一見当たり前のように自分の人生を構成している基本的な関係も模範解答的なものはないんだな、自分で少しづつ定義していっていいんだな、と気づかされました。こんな風に考えることができるということ自体が、伝統からの束縛が弱まったことの表れなのでしょうか。少しズレてしまいましたね、すみません。
シメ方が分からないので、この物語の中で印象深かった一文を紹介してシメることにします。
その文は、「シド・ヴィシャスから遠く離れて」というタイトルの物語の一番最後、若き頃にパンクを追いかけるように生き、パンクとその運命を共にするように夢破れていった主人公が、パンクを追いかけていたころの主人公にあこがれ、その幻影にしがみつき前に進むことができない堀田という男に、現実の幸せを心の中で語りかける際の言葉です。
”子どもたちの歓声を吸い込む秋の青空を見上げるときの、ささやかな喜びともっとささやかなもの悲しさを堀田に伝えてみたい。”
主人公は、堀田にささやかな喜びだけでなく、ささやかなもの悲しさも伝えたいと思った。なんとなく、この一文には、人生が凝縮されているように思いました。普通の何気ない人生はきっと、はたから見たら味気なくて、死んでいるのと変わらないくらい殺風景に映るものなのかもしれない。そして、確かにありふれた毎日を生きるその人もその人生の中にもの悲しさを抱いている。しかし、そのもの悲しさが幸せの一部でもある。この逆説的な幸福観がうまく言葉で表現できないれど、すごくリアルな人生の幸福を言い表しているような気がして、僕はとても好きでした。
読む甲斐のある本なので、ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか!
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