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古代ギリシャの思想と民主制

ソフィストやソクラテス以後の古代ギリシャは西洋哲学の起源と言える時代だ。なぜなら、社会や人間に関する哲学的な思索が始まった時代であるからである。ソフィスト以前の哲学は、自然について、その根源的な素材( What )とそのあり方( How )に思索を深めてきた。例えば、タレスは万物の根源的な素材は水であるとした( What )。一方でヘラクレイトスは、万物は流転するといった( How )。またエンペドクレスは、万物は四大元素が愛と憎しみの原理に基づいて結合分離をすることによって、形成・消滅すると述べた( What & How )。そして、彼らが自然について述べるとき、それは人間や社会を含んだ万物を意味していた。故に、そこには人間や社会をとりだして哲学の対象にするという視点はなかった。 一方で、ソフィストやソクラテス以後の古代ギリシャの哲学者は、人間や社会を思索の対象として、哲学を始めた。人間の認知能力の限界、社会の制度の正当性、正義や自由などの社会における諸価値観といったような西洋哲学の中心的なテーマの数々がその結果として生まれた。まさに、西洋哲学の始まりであると思う。 人間や社会について思索を深めるきっかけを与えたものは、いったい何であったか。それは、古代ギリシャに生まれた民主制という政治体制であった。古代ギリシャには政治的な単位として、相互に独立した無数のポリスが存在していた。ポリスの一つであるアテネにおいては、はじめ王制によって統治されていたものの、ポリス防衛に市民の参加が不可欠であったことから、中産の独立自営農民や商工業者が力をつけるようになった。その結果、市民の政治的権利を高めるいくつかの改革(ソロンの改革、クレイステネスの改革など)が行われ民主制が実現されることになった。 アテネの民主制はポリスの内部のすべての人間に平等な権利を認めるものではなく、奴隷や女性などは政治に参加する権利を有してはいなかった。しかし、それでも政治はアテネの市民たちによって行われており、彼らは彼らが何をするのかを自分自身で決定することができた。言い換えれば、そこには内外の如何なるものの専制も存在していなかった。 民主制は古代ギリシャに 2 つの自由の概念-集団主義的自由と自己中心主義的自由-を産み出した。まず、集団としての自由が生まれた。集団とし...

オリエント急行殺人事件と正義の哲学

  オリエント急行殺人事件と言えば、ミステリーの女王アガサ・クリスティーの代表作であり、ミステリー作品の古典的名作の一つでもある。と言ったものの、お恥ずかしながら名前は聞いたことがある程度で、私自身は内容を最近まで一切知らなかった。そんな私だが、最近になってその作品について知る機会を得た。 それは友人との映画鑑賞だった。オリエント急行殺人事件は、最近映像化されており日本では 2017 年 12 月 8 日の金曜日に一般公開されているのであるが、私は映像化されたその作品を鑑賞したのだ。 さすがに古典の名作というだけあって、とても良くできた物語であり、ミステリーならではの謎解きの楽しみだけではなく、社会への大きな問いかけを含んだ内容であった。今日は、オリエント急行殺人事件という作品が社会へ投げかけている一つの問いについて、考えたことをまとめようと思う。 ここで考えたい問いはこの作品の内容と深く結びついているので、内容に触れずに問いのみを抽出し議論することはできない。そのため、まずはこの作品のストーリーについて簡単に説明をするところから始めようと思う。しかし、ミステリー作品は他の如何なるジャンルの作品にもまして結末が重要な類の作品だ。結末のわかり切った推理小説ほど味気のないものもないだろう。だから、結末をまだ知りたくない、という人はどうか読むのをここでやめて、一度作品に触れてから戻ってきてほしい。 さて、それでは内容についてまずは簡単に説明をする。 主人公は世界的名探偵エルキュール・ポアロ。冒頭、彼はさっそく一つの事件を鮮やかに解決して見せた。僅かな証拠にもかかわらず、犯人を見つけ出したことに驚いた人がその理由を問いかけると、彼はこう答えた。 「この世界には善か悪、そのどちらかしかない。その中間は無いのだ。そして、私にはそれがわかる。」 彼は、この世界における善と悪をはっきりと見極めることができる。つまり、善人と悪人も彼にとっては一目瞭然なのだ。だからこそ、彼は事件の犯人も簡単に見つけることができるのだ、という。 冒頭の事件を解決した直後、彼の元に新たな事件の知らせが届く。新たな事件の現場へと向かい、事件を解決すべく彼はオリエント急行に急遽乗車することになった。そして、偶然乗車した列車の中で奇妙な事件に遭遇するこ...

ロバート・マートン 社会理論と社会構造

ロバート・マートン 社会理論と社会構造 序論 マートン曰く、本書の主要な関心は理論と調査の統合、並びに、理論と方法の系統的整理である、という。 ①理論と調査の統合―について まず、社会学という科学において、今まで蓄積されていた理論を批判的に見るまなざしの重要性を強調する。 “実際に役に立つ社会学の理論と社会学説史との魅力的ではあるが宿命的な混同は、理論と学説史の、それぞれ異なった機能を認識するならば、ずっと以前に駆逐されていたであろう。(中略)だが、ここに異様な事実は、社会学では、理論の歴史と現在通用している理論の、明白な区別がいたるところでつけられていない、ということである。” そのうえで、社会学が物理学などの他の諸科学と比較して、未だ胎動期にあることを指摘したうえで、その社会学にとってより重要な理論を見分けるために、「中範囲の理論」を提案する。 中範囲の理論とは、 “一定の限られた範囲のデータに適用できる特殊な理論” である。これは、社会学という科学の全範囲にわたる問題を解決し得るような全網羅的な全範囲の理論と対を成すような理論を指している。いわば、社会学という科学の全体とそれに含まれる個々の具体的な経験とを、全体としての一貫性を保ちつつ媒介するような理論のことだ。 マートンによれば、社会学はこれまで、中範囲の理論ではなく、全範囲の理論を作り上げることばかりに注力してきた。こうした傾向は、社会学に取り組むものが、社会学を物理などの先進科学と同じ水準に発達したものであり、もしくは、少なくともそうあるべきであると誤謬を犯しているためにもたらされたものである。しかし、実際には社会学は未だ生まれたばかりの未熟な科学であるから、社会学はかつて他の科学がそうしてきたように、中範囲の理論に道を譲らねばならないのだ。 “社会学の理論は二つの相互に関連のある局面において―一定の範囲の社会的データに適用し得る特殊理論を通して、またこれらいくつかの軍の特殊データを統合することのできる、一層一般的な概念図式の進化を通して、前進してゆかなければならない。” ②理論と方法の系統的整理―について 理論と方法の系統的な整理とは、文字通り、社会学における方法とそうした方法を通して生成されてきた理論をどのように一貫性を持った体系として整...

ニューカマーの子どもの学校教育―日本的対応の再考 太田 晴雄

ニューカマー(などの外国人のこども)への日本の学校の対応の特徴として、『内外人平等の原則の不徹底』(外国人を義務教育の適用対象外とすることや、義務教育として認められる教育が国民教育に限るということ―即ち、民族学校などは正統な教育として認められていないこと―など)『適応教育の強調』(学校内部においては日本人と同等の扱いを受けることを求められること。それ故に教育的配慮も日本人と同様な扱いを可能とできる程度までに留まるような平等主義的な配慮―equity【結果の平等―公平】ではなくequality【等しく扱うこと】中心であること。例えば、日本語指導も学習や授業理解に必要な日本語の能力を養うためではなく、日本人の子どもと同様の扱いを成立させるための最低限の日本語能力を身に着けさせるためである。)『日本人のための学校への一方的適応』(外国人がもつ異文化性や独自性を尊重するのではなく奪い取り、日本人のための学校―日本国民を育成するため の学校―への適応を強制することで一方的な日本人化をすること)が挙げられる。 こうした日本的対応は『国民教育の枠組みの中で行われる適応教育』という点にあると要約できる。そしてこれは、米国における従来のマイノリティ教育の特徴であった『奪文化化』(Deculturalization)を彷彿とさせる。『奪文化化』とは、『ある集団から文化を奪い、彼らになじみのない新たな文化を強要すること』と定義される。 日本のニューカマーへの教育対応が『奪文化化』を彷彿とさせる根底には、日本的な対応が『国民教育』(近代国民国家体制の下で行われる、国民的同質性の形成、その維持・強化に主眼を置いた教育)の枠組みで、そうした対応が行われていることがある。 即ち、国民教育の価値観に基づいて公教育の対象を日本人(日本国籍を持つもの)のみに限定し、教育内容も日本人教育と規定することが、義務教育諸学校への外国人児童生徒の就学に関する二つの原則(①就学の機会は『許可』〔義務や権利ではなく〕として提供され、②就学後は日本人と同様に扱われる)を帰結する。そして、日本人と同様に扱うことを実現するための『適応教育』が外国人の子どもの固有の文化を無視するか、抑圧してしまうのだ。 この『国民教育』のパラダイムに変わる新たなパラダイムとして考えられるのが『多文化教育』である。多文化教育とは、ドミナント...

不平等問題のダブルスタンダードと「能力主義的差別」 苅谷 剛彦

西欧の階層研究においては、家庭的な背景と学力の関係は広く認められていたし、学校が階層間の不平等や格差を再生産する装置であることは一般的な事実として認められていた。日本の階層研究においても、そうした西欧社会の研究は広く受け入れられていた。しかし、日本社会の全体を見たとき、研究者の常識は、一般的なものとして受け入れられてはいなかった。 日本において教育と差別が議論されるとき、教育差別として問題にされるものは、生徒を学力に基づいて序列化することを通して学力の低い生徒に『差別感』を与えることであった(能力主義的差別―能力に基づいてできる子とできない子を差別化して、できない子に差別感を与えること)。そして、これは、『社会的カテゴリーに基づいた不当な差異的処遇』を指す差別という言葉が持つ本来の意味とは別のものを指していた。ここにおいて、『差別のダブルスタンダート』が生じたのである。そして、日本における教育差別議論では、生徒 間に差異があるということを強調することそれ自体が教育差別であるとみなしたため(前者の『差別』が差別議論の中心であったため)、生徒間の差異をなるべく不可視化しようとする姿勢が支配的であった。 そうした中にあっては、生徒の能力は押しなべて等しいとみなすような能力論・素質論が蔓延しており、学力の格差に目を向けること自体がタブー視されていた。そのため、学力格差と家庭的な背景と結びつけて議論することもタブー視されていた。 しかし、教育と家庭的背景の関連を不可視化しようと試みていた日本社会においても、同和問題は家庭的背景と教育達成を関連付けて語らざるを得ないような問題であった。(社会的なカテゴリーに基づいた不当な差別的処遇としての『差別』を問題にしなければいけないような問題であった。)同和問題について、同和地区の子どもの教育困難自体を無視することを通じてジレンマを解消しようとする方法もあった。だが一方で、ジレンマを解消するそれ以上に重要な方法は、同和問題を例外として語ることであった。即ち、『差別のダブルスタンダート』に基づいて一般的な教育の不平等の問題と同和地域の不平等の問題は別である、とする『不平等問題のダブルスタンダード』を用いることに依る解決であった。 こうしたダブルスタンダードの存在が、日本社会において同和地区に関する議論では学力と家庭的背景の間の関係が議論さ...

『階層と教育』問題の底流 苅谷剛彦

階層格差は高度経済成長以前においては、『貧困問題』として人々の関心を集めるテーマであり、活発な議論がなされていた。しかし、高度経済成長などを経て、日本社会における絶対的な貧困が減少し、階層間の所得分配格差が減少していくにつれて中心的な議論から周辺へと追いやられていく。しかしながら、『戦後』一貫して特定の階層に有利な構造が教育において維持され続け、階層の格差が教育格差に帰結する状況は続いている。 即ち、所得分配の格差が縮小し、『大衆教育社会』が出現するにつけて、階層に関係なく教育を受けさせることが可能になった。こうした変化のために、階層と教育の問題の議論は、教育の階層格差が依然として維持され続けているにも関わらず、議論されることがなくなってしまった。 階層と格差の議論の戦後史を簡単に追ってみる。 1950年代においては、貧困問題として階層と教育の問題が語られていた。即ち、貧困層にはその貧しさのために、教育にとって不利な要因を負っているということが階層と教育の問題の中心として語られていた。故に、絶対的な貧困を解決すれば階層と教育の問題も解決するであろうというような見方が主流であった。 しかし、日本社会が豊かになって、絶対的貧困が縮小しても階層間の教育格差は依然としてなくならなかった。例えば、1975年において、日本社会の最下層の収入水準は、1965年の中間層と同等以上の水準であった。つまり、1975年には最下層であっても10年前の中間層以上の生活を営むことが可能であるほど、収入の水準が上がったということだ。こうした収入水準の上昇にもかかわらず、教育の階層格差は殆ど同じ水準で安定的に維持されていることが、1950年代から1990年代までの研究によって明らかにされている。 1950年代から1990年代までの階層と学力の関係の調査の中で、興味深い点は収入の格差(経済資本の量の格差)以上に職業や学歴の格差などの文化的な要因の格差の方が、教育格差にとって強い影響力を持っているということである。つまり、単純に下位層を経済的に援助したとしても、上位層と下位層の間の教育格差を縮める効果は限定的であるということだ。 いずれにしても、底辺階層におけるある水準よりも低い資本のあり方のような、絶対的な貧しさようなものが底辺階層の学力達成や教育達成を制限しているために、教育の階層...

外国人の階層研究の文献まとめ①

外国人の階層研究の文献まとめ 大曲、高谷、鍛冶、稲葉、樋口の論文 在学率と通学率から見る在日外国人青少年の教育― 2000 年国勢調査のデータ分析から 韓国・朝鮮人 高校在学率は日本人と殆ど変わらない。 大学・大学院在学率は日本人よりも少し高い。 高校を日本で過ごしたものに絞ると大学・大学院在学率は日本人とほぼ同じになる。 (差を生じていたのは、留学生の存在であったといえる) 韓国人の 5 年前国外にいたものの大学在学率は兵役にかなり影響を受けている。 中国人 高校在学率は日本人よりも低い(男子は 20~25 パーセント程度、女子は 10% 程度) 大学在学率は 19 歳では日本人よりも低い( 10% )が 23 歳では日本人より高い( 15~20 ) 日本で中学を過ごした女子は高校進学率において殆ど日本人と同等 日本で中学を過ごした男子は日本人との差が 10~15% ほどに減少 23 歳時点では、在日歴 5 年以上者についても、在学率が男女とも日本人よりも高いまま。 (中国人は日本人よりも大学にとどまりがち) 19~20 歳の点で比べると高校を日本で過ごした中国人の女子は日本人と同等かそれ以上の大学進学率を達成している。ただ、男子は日本で過ごしても日本人よりもやや低い。 5 年前どこにいたか、ということが通学率に与える影響がほかの集団よりも小さい 5 年前に国外にいた 20~23 歳の集団の通学率の男女間の差が大きい。 ブラジル人 高校在学率が 40% を越える年齢・世代がない 男女とも 18 ・ 19 において短大・専門学校進学率が 5 %程度で大学進学率は殆どゼロ 5 年以上滞在して、中学校を日本で過ごせる状況にいても高校に進学するのは 50% 以下 ( 5 年以下の滞在を含めたときよりも 15% は上がった) 5 年前の常住地について、【現在と同じ場所】( 16 歳― 66.7 、 17 歳― 59.4 )【国内の違う場所】( 16 ― 55.6% 、 17 - 25.5 )【国外】( 16 歳― 17.2% 、 17 歳― 11.6% )の順に在学率が低くなっている。(著者の予想通り) 著者は、 5 年前の常住地を今と同じ、国内の別の地域、海外、に分...

在日外国人の仕事―2000年の国勢調査から― 大曲、高谷、鍛冶、稲葉、樋口著

ニューカマーの労働状況について 失業率 インドネシア-1.5%【最も低い】 外国人全体の平均よりも5.7%以上低いグループ インド、ネパール、バングラデシュ、マレーシア、ミャンマー 外国人平均以下 パラグアイ、アルゼンチン、ブラジル、ボリビア(わずかに低い程度)、ペルー(僅か) 平均付近 カンボジア、スリランカ、タイ、中国、パキスタン、フィリピン、ベトナム 平均よりも1ポイント以上高い イラン、韓国・朝鮮(失業問題の存在を示唆)、ラオス、ガーナ、ナイジェリア キーワード:エスニックニッチ 或るエスニック集団が構造的、文脈的様々な理由や背景から特定の産業に集中すること。 要因の例:移民受け入れの文脈、移民のネットワークを介した求職行動 そうした産業のことをあるエスニック集団によって形成されたエスニックニッチと呼ぶ。 職業小分類に見る外国人の職業 専門職・管理職 中国籍の高さが際立っている(日本人以上)―1割以上が専門職 (New ComerかOld Comerかはわからない) 韓国・朝鮮籍 専門職は日本人とそれほど変わりはない。 管理職(主に会社役員)比率は高い―日本人の2.5倍、中国人の3倍 (就職差別→起業によって活路を見出してことに依る) その他 中国系以外のニューカマーには、専門・管理職の道は明確に閉ざされている。 サービス業 外国人は(ブラジル・ペルーを除き)サービル業への従事比率が高い フィリピン・タイ国籍は中でも際立ってこの業種に集中している 調理人―韓国・朝鮮、中国、タイ国籍者で日本人の2倍以上 (そのほか飲食業関連でもそれらの国籍者は日本人よりも多い―エスニックニッチ) 性産業 フィリピン―4分の1が性産業に従事 タイ―6%が性産業に従事 生産工程職 サービス業に較べるとエスニックニッチ化の傾向は弱い 中国籍―日本人の3倍弱が従事 【実習生、研修生の存在】 フィリピン―中国籍と同程度 タイーフィリピン国籍以上の高さ ブラジル―75%が製造業 タイ―70%が製造業 圧倒的な南米系移民に依るエスニックニッチを形成している。 学歴と職業、労働 日本と中国、韓国・朝鮮籍 大卒の方が役員が多く、家族従業者(家業に従事する人)が少ない。 フィリピン・タイ国籍 総じて学歴の効果は限定的 大卒で自営業(雇人のいない業主)の比率が高く家業の割合...

教育学をつかむ 序 教育学とは何か 木村 元先生

要約 教育学という学問が対象とする教育という営みは、文化伝達のうちで子供の成長の過程に意図的に働きかける行為と定義される。“意図を持って教える”という性格を持つこうした教育は人間の歴史の始まりからあるようなものではなく、近代という時代における『共同体の崩壊』と『ネーションの形成』によって生み出され発展した。 教育学はデュルケムの二分法に従って、『ペダゴジーとしての教育学』と『教育科学』と分類されることが一般的であった。しかし、こうした実践と客観的な理論の分断は、どちらか一方に偏ったアプローチでは解決できない教育問題の出現とともにその機能不全が指摘され始めた。現代社会においては、教育科学とペダゴジーを横断するような教育学の形が求められている。 感想 共同体の崩壊と近代教育の出現という部分につけて、共同体の崩壊という出来事の歴史的な重要性を改めて感じた。 それは同時に、ゲルナーやアンダーソンが論じている近代という時代の出現の歴史的な重要性を再認識せざるを得ない。 ゲルナー曰く、工業化以前の階層分断的な共同体に特徴付けられる農村社会が工業化によって崩壊し、階層に関係のない労働需要が生まれ、その結果。共同体の枠を超えて人口の移動が起こるようになり、共同体は崩壊していった。 少し詳しく言うと、工業化によって産業の構造は変化し、生産効率も向上したため階層に関係なく無産市民的な形の労働力が社会にあふれることになる。こうした労働者たちは近代になって初めて生まれた工場労働者などになった。このようなかたちで階層や以前のコミュニティを超えた人口の移動が起こるようになり、次第に共同体は崩壊していく。 近代化、そして、近代化を呼んだ工業化、本当にとても重要だ。 共同体が崩壊すると、それ以前には共同体の中で自然と社会化されて成員となっていた子供たちが、白紙の状態でいることが発見された。これが、『意図を持って教える』教育のきっかけだ。 でも、これだけではない。共同体の崩壊は社会全体にとっても大きなきっかけとなった。それが国家の形成、という動き。 階層や共同体によって統合されていた人々がばらばらになったとき、それを別の方法で統合しなければならなくなった。それが国民国家の形成という課題だ。 そのときに、非常に便利なツールと考えられたのが、教育だった。そして、国民国家の形成という大きな流れに後...

国際社会学 第7章 移民・外国人の子どもたちと多文化教育 宮島喬著

I外国人の子どもの就学の状況 不就学者の存在―という問題 佐久間孝正も不就学5つの原因 1本人の意欲の欠如 2頻繁な移動・滞在予定の不明など家族の行動 3いじめなどの人間関係 4日本語指導や受け入れ体勢の不備 5『構造化された不就学』 ・義務教育の外国人への適用除外 ・親の超過滞在など非正規状態―支援要求がしにくい など II移動する子どもたちへの教育的対応 受け入れのタイプの類型 1滞在が一時的な子どもを放任するか、母語や母文化教育を提供する 2入国前から同化が行われており、ホスト国の国民と変わらない教育を受ける(植民地教育) 3移民すべてに公教育においては、ホスト国の国家一言語での教育を行う 4定住移民第二世代への多文化的な教育を行う 日本は第3の類型に含まれる III学習の環境と社会的条件 言語のハンディ以外の不利な環境的・社会的条件 ・頻繁な移動―子どもたちは学校適応が困難になる ・経済的要因 ・家族内関係―家族の統合度―父母の不和、一方の不在、養育放棄、など 三態度要因―『動機と励まし』『子供への強い関心と献身』『学校通学が大事と説くこと』 日本の外国人の状況―不就学・不登校家庭は家族問題がある 一般的にニューカマー外国人にとって家庭が効果的な学習支援の場となるのは難しい IV多文化の教育の必要 多文化教育の必要性―アイデンティティの維持、異文化環境への適応、第二言語習得 日本において、多文化教育は極めてまれである 多文化教育の類型 共有型―同じ学校内など、共有の場で複数の文化が学ばれ教えられること Minority文化がMajority側から否定的に見られ、言及されることがないのが成功条件 ―マイノリティが自文化を肯定的に見なし、積極的に表出できなくなってしまうため 日本においては、この条件をクリアすることは一つの課題 分離型―特定民族の集住コミュニティの中の学校で多文化教育が行われ、ほかの学校では同化 V進学と社会参加 学校教育が単線型ではない国―早い段階から進路や成績に応じた生徒の振り分けが行われる国 マイノリティは底辺階層へ続くコースへと早い段階で振り分けられることがある 日本は中等教育を通じて学校格差の問題が存在している―将来の地位の決定 日本における外国人高校進学率―30%にも達しない 低進学率の要因 1学習を進める上でのハンディ(日...

日本におけるニューカマーの言語政策

日本におけるニューカマーの現状と問題点 日本語の指導が必要な生徒多数 教育問題も多数ー不就学など (家庭、経済、言語、精神など多様な問題) 様々な国の言語政策の事例と現状 オーストラリア 多文化主義国家 人口の約23%が海外の出生 約27%が少なくとも片親が海外出生者 言語政策(ESLやLOTE教育)ーメディアやテクノロジーの活用と社会の全面的な強力が特徴 カナダ 多民族国家 ヨーロッパ系白人約65% アジア、アラブ、黒人が約20% 二言語主義国家ー英語とフランス語の二つの公用語 言語政策ーフランス語プログラム、バイリンガルおよび遺産言語教育、先住民の言語教育、(ニューカマーへの教育) 社会の全面的な協力ー家庭の協力など イギリス 地域毎の固有の言語の存在 ニューカマーへのコミュニティ言語と地域少数言語への配慮が中心 正規の全国共通カリキュラムへの組み入れ 3国の共通点 1ニューカマーの母国の文化や言語の尊重 2国レベルのプログラム 3受け入れ体制の構築 4保護者の協力(教員不足をカバー) 5豊富な言語選択肢 日本の言語政策 各学校毎の「日本語指導」と「適応指導」 日本語指導ー取り出し教育、生徒のそばに教員の配置 しかしほとんどの学校(外国人児童すくない学校)で十分にこうした対応をとることができていない。 日本語指導を行う人が素人 適応指導ー文化的な規範や行動などの理解を支援する活動ー具体性なし 言語指導に関して 生活言語以上の学習言語の発展という課題 日本語や学力の土台として、母語の基盤を支援するという課題 今後の教育現場への課題 外国人指導の専門家の配置 地域や行政、家庭など、社会全体での支援体制構築

日本における外国人受け入れと子どもの教育 ―ブラジル人の場合を中心に―江原 裕美著

①日本をめぐる『移民』と教育―『外国人子女教育』の位置づけ 近代化や経済発展の関係と密接に関わる日本における国境を越えた移動 国境を越えた人の移動の流れを軸とした時代区分 膨張的植民地主義から戦時体制へ 明治前期の地租改正や通貨の改革―自作農の没落と農民の困窮―海外へ出稼ぎ 東南アジア・南洋への出稼ぎ(WWII頃まで続く) アメリカへ―1900年ころ1920年までがピークで30年間で269,832人 中南米へ―1908~1945までで合計244172人 入移民―出移民に較べて極めて少ない、WWII中、朝鮮人が多く移住 戦前の国際的局面における教育 海外の日本人と国内の外国人 海外(日本人学校)においても日本においても臣民教育 外国人は同化、OR、排除 戦後の日本経済と対外関係における教育 植民地から630万人もの日本人が引き上げ 朝鮮戦争を背景に経済成長―企業の海外進出(アジア中心)の始まり(~74年) 1974∼5年―オイルショックからくる世界的不況 1980年~日本企業のグローバル化―日本の経済成長―外国からのデカセギの下地 海外子女教育と学校 海外子女―海外の日本人学校の拡大(1970年には39校、85年には38011人) 帰国子女―教育の『国際化』の名の下に受け入れ態勢の拡充 一方で在日朝鮮人など内なる『国際』は無視されていた 『外国人子女教育』問題のインパクト 1990年出入国および難民認定法―在日朝鮮人が『特別永住者』になり、法的地位認定 在日の人たちの教育的地位の問題は1960年代末から少しずつ変化 同上法律―日系人の在留資格『定住者』新設―日系移民のデカセギ開始 日系移民のデカセギに伴って『外国人子女教育』問題が表面化する ②日本における外国人と教育問題の意味 一、定住外国人の増大と多様化 2006年末―外国人208万4919人(日本の人口の1.63%)―過去一貫して増加 東京に36万人、大阪に21万人、愛知に15万7000人、神奈川に13万8000人 10都道府県に全体の70%が住む 国際結婚(2005年総結婚数の約6%)増加―両親のいずれかが外国人の子どもも増加 オーバーステイ―推定22万人 二、ブラジル人労働者の就労・生活と教育 不確定な永住への意志、永住傾向―両国を行き来するトランスナショナルな生き方も 不安定な非正規雇用―ジャストインタイム...

階層構造のなかの移民、マイノリティ 竹ノ下 弘久著

①社会階層論における移民の位置づけ 社会階層論の関心 ―世代間(親子間)、世代内(本人の労働市場に参入後のプロセス)の社会移動と不平等 日本における社会階層論と移民 ―『単一民族神話』―移民・エスニシティは語るに値せず アメリカにおける社会階層論と移民 ―研究多数―黒人の『貧困の継承』と『人種の継承』 ②移民の社会階層をめぐる理論 編入様式論(ポステルら) ―受け入れ社会の制度的文脈を考察するため提唱される ―①受け入れ国の移民政策(入管政策、福祉政策、統合政策) ―②労働市場の構造(労働市場の階層化、分断化の構造、移民が吸収される階層的位置) ―③Ethnic Community(Communityの有無、役割、社会関係資本)の3つの次元に着目 (古典的同化理論VS)分節された同化理論 ―移民グループや個々のケースに応じて多様な適応プロセスが存在する ―第一世代の編入様式(教育的背景、受け入れ国の政策など)の違いが親子関係を多様化 編入様式論と分節された同化理論の国際比較への応用(アメリカ以外の社会を分析する際) ―二つの理論はアメリカ社会を前提―国際比較には国ごとに異なる制度的文脈に留意 ―留意すべき制度的文脈4つの次元 ―①移民政策(出入国管理政策と統合プログラム) ―②労働市場(社会移動の可動性を制限する労働市場構造への着目) ―③福祉レジーム(福祉レジーム-自由・保守・社会民主主義―と労働市場への編入様式の関係) (福祉レジームはある社会の福祉制度が依拠し前提とするIdeologicalな基盤) ―④教育システム(初等教育開始年齢、選抜分化の開始時期、階層化の程度・重要度)

ノンフォーマル教育の可能性 丸山英樹 太田美幸著

第一章 教育と学校 第二章 ノンフォーマル教育とは何か 第六章 多文化社会の課題とノンフォーマル教育 第一章 教育と学校 ①教育とは何を指しているのか 現代に通じる教育の生まれ―15∼16世紀・近代化の影響(産業革命と中世的共同体の解体) 現代に通じる教育―『発達への意図的・計画的・持続的介入』としての教育 ②国民教育制度としての近代学校 国民国家を形成するために異なる民族を国民として統合する制度としての学校教育の誕生 『発達文化』―教育がそれに基づいて設計されるような文化(価値観、規範、信念の集合) 初期―支配階級の発達文化に依るヘゲモニー 教育改革―徐々に抑圧されてきた発達文化が学校教育に組み込めていく過程 ③様々な教育のかたち 学校教育以外の教育の場での教育(non-formal)―近代学校とは目的や対象が異なる教育 例 学校教育に参加できない集団のための教育 学校教育とは異なる発達文化を持つ集団のための教育 など 第二章 ノンフォーマル教育とは何か ①近代学校とは異なる教育 ノンフォーマル教育―近代学校とは異なる教育 どのように異なるのか、二つの意味―『非正規』と『準定型』 ②ノンフォーマル教育の二つの意味 二つの意味―上記 『非正規』―学校教育の制度の外側で行われる教育 『準定型』―形式がないわけではないが、カリキュラムや教師生徒の関係など形式が柔軟 『非定型』―インフォーマル―模倣や観察など、形式がない教育 インフォーマル教育の射程―『非正規』且『定型・準定型』、『準定型』且『正規・非正規』 インフォーマル教育が含む射程は広く、定義はコンテクストに依存し、普遍的ではない。 第六章 多文化社会の課題とノンフォーマル教育 ①多文化社会における教育の課題 『発達文化』の多様性―言語の違いなどの問題の現れ 発達文化の違いをカバーするための『非正規』の教育の利用 e.g. 民族学校、外国人学校など ②異文化を生きる人々への学習支援 学習支援としてのノンフォーマル教育―中学校夜間学級 文化の違いや言語の壁に悩む人々、制度からはみ出てしまった人々への支援 ③アイデンティティ形成の資源を獲得する 自文化への肯定的理解―異文化保持者の安定したアイデンティティ形成 自文化理解の場(機会)としてのノンフォーマル教育 多文化要素を含むアイデンティティの可...

移民の子どもの教育の現状と課題 ハヤシザキカズヒコ著

まず、著者は日本の政府の外国人問題への建前を批判します。著者曰く、日本政府は外国人の問題への対応策を『移民政策』(統合政策)として捉えず、それ故に移民という言葉を使うことなく『外国人』という言葉でごまかしていることを指摘します。その結果、日本における外国人への支援の政策は抜本的ではなく、付加的なモノ(おまけのようなもの)としての政策が中心になっているといいます。そうした背景から、移民の子どもへの支援にももんだいは多く残っているのです。著者によればそれはおもに3つ。①支援者のスキル不足(ボランティアやNPO頼りで専門性に欠けるから)②使用教材の難しさ(日本人中心に作られているため外国人には難しい)③家庭的文化的 背景への配慮の難しさ(出身国や家庭的な背景に応じて必要な支援が違うため、対応が難しい)、というこれらです。 しかしながら、それでもこれまでの支援が積み重なり、外国人の子どもの高校進学率は着々と上昇し、現在では80%台まで到達しました。日本人の98%に較べるとまだ、格差はありますが、希望が持てる変化であるといえるでしょう。ただ、ハヤシザキさんは触れていないが、外国人の子どもに関しては不就学、という問題もあるため、この進学率からはみ出した、高校学齢期だが学校に行かない子どもたち、が含まれていないことには留意が必要であると思う。

『移民の子供の学習特性』について

OECDの調査によれば、移民の子供の学力というのは、ネイティブの子どもと比較すると、著しく低いことが示されています。では、移民はネイティブと比較して勉強に対して意欲や関心、自信をどのくらい持っているでしょうか。また、移民の子どもたちはどのくらい肯定的に学校という場を捉えているでしょうか。学力と同様に、ネイティブに比べて非常に低くなっているのでしょうか。この論文では、その問いを検証します。 いくつかの先行研究によれば、関心や意欲、自信、学校観などの要素は、学校の中での学びのみならず、生涯を通しての学びにとって重要な要因であり、将来の成果や業績を左右する要因であると考えられています。それ故に、これらの要因に着目することに価値があるのです。 前置きが長くなりましたが、本研究によれば、移民の関心、意欲、学校観についての肯定的な認識の度合い、おいて移民はネイティブに比べて、同水準か、もしくは少し高い水準であるということが示されました。これは、今後の移民教育に対する指標となりうる結果といえるでしょう。 一方で、自信という観点については、あまり有意に移民の子供が高いという結果は得られませんでした。ただ、自信の一部を成す自己効力感(課題を努力によって自力で乗り越えていくことへの自信)については、移民の子どもたちはネイティブの子どもに較べて非常に低いという結果は示されました。この結果は今後の課題として残りそうです。

ピグマリオンの彫刻にならないように

誰かに意見を聞くこと、アドバイスをもらうこと、それはとても意味のあることだ。 自分の気づかないような視点から意見をもらうことで、自分自身を発展・成長させることができる。 でも、時々、他者に意見ではなく、答えを求めてしまうことがある。 自分は何者なのか。自分はなぜ自分であるのか。自分は何のためにここにいるのか。 こうした問いの答えを自分の中にではなくて、人に求めてしまうことがある。 人の意見を答えとして受け入れている自分を見つけるとき、自分の中の空洞に気が付く。 自分という存在の中身が空っぽであることに気が付く。 その空洞を、誰かの言葉で埋めようとする自分に気が付く。 ギリシャの神話の中に、ピグマリオンという彫刻家がいる。 彼は、身の回りの女性の悪い側面を目撃するにつれて、生身の女性を嫌うようになる。 そして、彼は自分の理想的な女性を彫刻によってつくり上げてしまった。 それは素晴らしい出来で、ピグマリオンはその彫刻に恋をした。 彼は毎日、彫刻に命が宿ることを願った。 そして、最後にはその願いが実を結び、彼は人間になった彫刻と結婚する。 実は、その彫刻は人間になったとたん性格は最悪で、この世界にうまい話はないものだ、というオチでもあればいいのだがそんなオチはない。 ギリシャの人にお約束は通じないらしい。 それはさておき、誰かの期待や望みが形を与えられ、そこに命が与えられる形で人間になった彫刻は、空洞の自分を誰かの言葉で埋めることで自分を形作ろうとしていた自分に似ている。 誰かの中に自分とは何者か、という問いの答えを求めていた自分に似ている。 でも、それではいけない。 自分が何者なのか、は自分で決めなければならない。 他者から受ける影響もあるかもしれないが、答えを人に求めてはいけない。 きっと、ピグマリオンの話にも彫刻が自分と向き合い、自分を再定義していく、そんな続きがあるはずだ。 なければいけないと思う。 そんな続きもないのだとしたら、せめて自分はピグマリオンの彫刻にならないように。

OLLIE

夏休み。 1か月もの膨大な、そして、束縛のない時間が目の前に広がった。 これまでの20年間であれば、なんの根拠もない希望に胸を膨らませ、楽観的に毎日の時間が過ぎていくのを楽しむことができたのだろう。 だけど、今はそんな気持ちになれない。 空っぽの頭をごまかすためにスケートボードに両足を乗せた。 スケートボードの初心者の自分は、ジャンプをする時、ジャンプの直前まで地面を見てしまう。自分が何を飛び越えようとしているのか、自分がどこに向かっているのか、わからないまま不安定にぐらつく四輪車の上に自分はいる。 自分はどこに向かっているのだろうか。 何を飛び越えようとしているのだろうか。 バランスを取ることに精いっぱいで、そんなこともわからない。 随分長い間板の上でただゆられていることに気づき、慌ててテールを蹴り、飛び上がろうとする。そうやって試みたジャンプは、大抵の場合は的外れな方向に飛んだり、殆ど飛び上がることができないままだ。 ようやく、前を見て飛ばなければいけないことに気付いた。 何を飛ぶのかわからないままでは何も飛べないことに気が付いた。 でもやっぱり、気付くだけではすぐには飛べない。 気づくのが遅すぎでないことを、祈る。

シンボリック相互作用論とはなにか

おはこんにちばんは! 昨日の夜から風邪をひいてしまい、今日は一日休養を取っていました。 体調管理には気をつけましょうね! 基本的にベットに横になって体を休めていたわけなんですが、いろいろ動画を見てしまい、時間を若干無駄にしてしまったなぁという罪悪感もありつつ、少しだけ読書をしました。 少し前に、ブルーマーの書いたシンボリック相互作用論という本を買ったのですが、読んでいなかったので、読んでみることにしました。この本を自分が買った目的はシンボリック相互作用論は社会をどのように見るのか、シンボリック相互作用論って何なのか、を知りたいがゆえに購入した本なので、それについて書いてある最初の一章のみ、しかも冒頭の一節だけを集中的に読みました。残りの部分は気が向いたら読もうと思います。 ブルーマー曰く、シンボリック相互作用論は3つの前提に立脚しているそうです。 『第一の前提は、人間はものごとが自分に対して持つ意味にのっとって、そのものごとに対して行為をするというものである。(中略)第二の前提は、このようなものごとの意味は、個人がその仲間と一緒に参加する社会的相互作用から導き出され、発生するということである。第三の前提は、このような意味は、個人が、自分の出会ったものごとに対処する中で、その個人が用いる解釈の過程によってあつかわれたり、修正されたりするということである。』 つまり、人間の行為は行為を行う対象のものごとが行為者にとって持つ意味に則って行動を行う。そして、ものごとのそうした意味はものごとに内在する普遍的な意味や真の意味といったような性質のものではなく、自分自身や他者との相互作用を通して定義されたり、修正されたりする、ということです。更にもう少し踏み込めば、このことが意味するのは、人間の行為は他者や自分自身との社会的相互作用を通じて(に応じて)形成されていく、ということです。 そして、相互作用が人間の行為を形成する、というこの過程は『指示と解釈』という二つの過程を含んでいます。これはつまり、ある人の行為は他者に対してどのように行動すべきかを指示し、他方では指示をされた人はその指示を解釈し、自身の行動を決定する、という二つの過程が相互作用を通じた行為の形成には含まれているということです。また、こうした解釈はすでに確立されたものごとの意味を単に適用するとい...

速読多読 C・ライト・ミルズ著 社会学的想像力

読了日:2017年3月23日 読了時間:6時間 中々長い本で内容もそこまで簡単ではなかったので、時間はかかってしまったし、内容理解についても非常に粗末なものになってしまいましたが、とりあえず、通読はしてみました。社会学的想像力というアイデアはこれまで履修してきた社会学のいくつかの授業の中で取り上げられていたため、すでになんとなく知っているアイデアではあったので、なんとなく取り付きやすい内容でした。内容理解については自己評価は30点くらいですが、一応まとめます。 内容について 社会学的想像力とは、個人史と歴史、そしてその両者が社会の構造の中でどのように交わるかについて思考するための力であり、社会科学の伝統と約束に基づくものである。社会学的想像力を働かせるということは、私的問題と公的問題の間の構造的な関係を理解することを含む。そのため社会における経験的な問題を歴史的な構造のなかで位置づけながら、その問題について私的な位相と公的な位相の様々なレベルでのパースペクティブの移動を行うことが必要である。 社会学的想像力がそうであるように、一方で社会科学は常に経験的で具体的な問題の解決という目標を含み(具体的な現実との結びつき)、他方で歴史的な広がりや、問題の社会全体における構造的な位置関係など、大局な視点を伴っている。換言すれば常に多様な位相(部分と部分やと部分と全体など)の間の視点の移動を伴っている。 昨今の社会科学の研究は社会科学の伝統や約束が歪曲されがちだから、現代社会の問題を理解するために必要な社会学的想像力がうまく働かず、問題の個人化・私的化ばかりが起こる。(公的には無関心が問題になり、私的には不安が問題になる) 社会学的想像力というこの本は、概念の物神化に陥ってしまったグランドセオリーや、形式(方法)への過度の傾倒のため研究の対象の問題が形式に置き去りにされてしまい、結果として問題が持つ歴史的意味や構造的な位置についての視点を欠いたために無意味な事実の集積となってしまった抽象的な経験主義などの、社会科学の伝統に対する歪曲への批判などを通して社会科学の伝統(約束)を改めて確認する、という試みである。

速読多読。読書日記(久々) E・H・カー著 歴史とは何か

書籍名 E・H・カー著 歴史とは何か 読了日 2017年3月16日 読了時間 5時間 久々の『速読多読』になりました。 なかなか最近は、特に忙しいわけではないんですが、悩みの日々といいますか、難しい時期です。高校生のときもそうでしたけど、進路を選択するというのは簡単なことではないですね。考えることから逃げ出したくなってしまいます。 それはさておき、本題の速読多読の更新をします。 今日読んだ本は、『歴史とは何か』という本です。 著者のEHカーは、イギリスにおいて外交官、政治学者、歴史家とマルチに活躍した人物です。そして、著名な刊行物としては、『危機の20年』や『歴史とは何か』などがあり、それらの作品は日本においても世界各国においても多く引用されています。 この本との出会いは、二年前の冬、教職課程の何かの授業でした。細かないきさつは忘れてしまいましたが、尊敬する先輩に勧められるがまま購入し、そしてそのまま読まれることなく今を迎えてしまっていました。 そして再び、この本が手に取られた背景にあるのは、進路決定の悩みです。 人々が持っているある事柄に関するイメージがどのように作られてきたのか、ということを知るために、文献を探していた時に頭に浮かんだのがこの本でした。 二年前、先輩がこの本を勧めていただいたとき、その先輩は『この本には、歴史というものが誰によってどのようにして作られてきたか、ということが書いてある』と仰っておりました。歴史は自然に起こってきたことの記述であろうと感じていた自分にとっては、『歴史が作られる』というその言葉が新鮮で興味深く感じ当時手に取った背景がありました。 要するに”歴史は歴史家を通した社会的な構築(Social Construct)である”ということがその言葉の趣旨であろうと思われるその言葉を覚えていた自分は、社会的な構築がどのように行われるのかを学ぶにあたって参考にすべく今回手に取ったのでした。 前置きが長くなってしまいましたが、内容を手短にまとめます。 というか、本当に流して読んだので、手短以上に内容について述べることができないので、手短に述べます。 まず、一言でまとめるならば、”歴史とは、歴史家を介して行われる社会的構築である”ということであろうと思います。 ...

進学に向けて③ 教育に関する外国人の権利と義務

さて、クイズです! 問題: 外国人は日本において教育を受ける権利が日本国民と同様に一応保障されています。 そこで問題です。外国人の子どもの親には日本国民それと同様に、子どもに教育を受けさせる義務があるでしょうか。 選択肢: ①もちろん、ある ②いや、ないね 正解は、②です! 正解者の方おめでとうございます! 簡単だったでしょうか? 簡単だったかもしれませんね。 では、外国人に義務が義務化されていないことで、どのような問題があるのかをご存知ですか? 今日はその「日本における外国人の教育を受ける権利と義務教育」について少しまとめます。 さて、初めの問題の中で述べたように、外国人にはもちろん、教育を受ける権利があります。それは日本においても保障されています。この根拠としては、20世紀末における「子どもの権利条約」など、そのほかにもいくつかの国際条約があり、日本はそれらを批准しているためです。 これがどういう意味かというと、”日本においても、外国人であろうと、望めば教育を受けることが保障されているし、そのコストも日本人と同様に無料である”ということです。 これを聴くと、なんとなく、外国人にとっても日本人と等しい教育制度が実現されていて、地位の違いによって生まれる教育問題なんてないように思えます。 しかし、実はそうではないんです。 「不就学」という言葉を聞いたことがありますか。 不就学の子どもというのは、学齢に達しているにも関わらず、いかなる学校に所属することもない、すなわち、教育から排除されている子どもたちのことを指します。 日本は、義務教育が制度化されていますら、一般的には不就学の問題は可視的ではありません。しかし、不就学の問題が存在していないわけではないのです。 そして、この不就学という問題が、外国人の子どもと義務教育という今日のテーマと大きく関わりをもっています。 まず、先程も述べたことと重なりますが、日本においては、義務教育が制度化されていますので、不就学はほとんど存在しません。仮に、日本人の義務教育学齢期の子どもが学校に行っていないことがわかれば、すぐに学校に入れられる努力が行われるためです。 では、なぜ、日本においても不就学という問題が存在してしまうのか。 それは、外国人の子ども―日本国籍を持って...

進学に向けて② 孤独なツバメたち

進学に向けて② 孤独なツバメたち 今日は、孤独なツバメたちという映画を観て感じたことをだらだらと書き連ねようと思います。 最近、日本にいる定住者(デニズン)について勉強をしていて、その勉強の一部としてこの映画を観ました。内容は、静岡県の浜松市における日系ブラジル人のデカセギの子どもたちを追ったドキュメンタリー映画です。作中では、彼らが法的な地位と現実の乖離にどのように翻弄されているか、がありありと描かれています。 日本には、入国管理の法律はありますが、入国した彼らを社会に統合する法律はありません。それは、日本は一般的に入管法の意図としては、将来的に定住化し、統合が必要になるような滞在資格ー即ち外国人労働者ーの入国を認めていないからです。 あら?と思った人もおおいでしょう。 実際に日本のメディアの報道でも日系ブラジル人の労働者などの外国人労働者の問題が報道されることもあるし、そもそも少し前に僕も”日系ブラジル人のデカセギ”と書いています。だから、今僕が書いた内容には一見、矛盾があるように思えます。 しかし、この二つの内容はともに事実で、矛盾では決してないのです。それはなぜかというと、日系ブラジル人は日本の入管法に基づく法的な立場では、「定住者」という位置づけで、はじめから短期滞在の外国人労働者としてみなされていないのです。そのかわり、国家は彼らについて、文化的には日本人と類似していて、故に統合政策は必要ない、と意図していました。 ですが、実際には彼ら日系ブラジル人は血統的には日本人の要素が混ざっていますが、文化的には完全にブラジル人で、日本社会も彼らを決して日本人と同等とはみなさず、外国人とみなします。 それ故に法律的には「統合政策は必要のない存在」とされていながら、実際は「統合が必要な外国人労働者」としての日系ブラジル人が存在しているのです。 つまり、法的な意図と、現実に大きなギャップがあり、それによって「存在しないはずの外国人労働者」が存在してしまっているということです。 統合政策がない、ということは、彼らのような移民にとっては社会から排除されるにほとんど等しい状態です。労働は短期間の不安定な単純労働職にしか就けず、満足な社会保障も受けられない。教育を受けようにも積極的に移民を支援する教育政策もない。そして、その状態を問題視する...

進学に向けて 顔の見えない定住化 序章

進学に向けて!① 顔の見えない定住化 序章 こんばんは。 突然ですが、今日からひとつ新しいコンセプトをもって読書に挑戦していこうと思っています。自分は今年で大学も四年目ということもあり、進路と真剣に向き合う時期を迎えています。自分は就職ではなく、進学という道に進むのですが、そのためにはいろいろやらなければならないことがあります。そして、その中でも重要なのが読書です。なので、今日からは、 ”進学に向けて!” というタイトルの下、進学のための参考文献を読了したものをまとめる、ということにも新しく挑戦をしていこうと思います。 なるべく早く読みたいので、速読のメソッドは駆使しつつ読んでいくのですが、自分は様々背景があってこれまで自分が勉強してきた内容とはあまり関わりのない、自分のあまりよく知らない分野の内容をこの挑戦の下では勉強していくので、どうしても読むのに時間がかかってしまいます。なので、内容が薄くなってしまうことも多々あると思いますが、めげずに頑張ろうと思います。 さて、第一回目の今回は「顔の見えない定住化」という本の序章を読みました。読了時間は2時間と、20ページの内容にも関わらず、信じられないほど時間をかけてしまいました。 やはり、自分の知らない情報がほぼ100%で書かれている本を読むのは大変ですね。情報の取捨選択の基準もないので、すべての新しい情報に気を取られてしまいます。 内容について 序章ということもあり、この本全体が何に焦点を当てて、それをどのような視点から考察していくのか、ということがかかれていました。この本は日本におけるブラジル移民についての学術研究なのですが、どうやらこの本はブラジル移民の日本への移住過程を社会の構造的制度的要因との関係の下、理論化するということが第一の目標のようです。 構造的制度的要因として、この本の中で着目するのが、「国家」「市場」「移民ネットワーク」の三要因なのですが、一般論では移民の移住過程を構築する方法は「国家と市場」と「移民ネットワーク」でそれぞれ違うそうです。一般的には「国家や市場」は移民国家レジーム(国家による入国管理と移民統合の体系を構築する言説・政策の型)を通じて構成し、「移民ネットワーク」それとは独立した方法で移住過程を構成します。 しかし、日本の構造は少し特殊で、本来あまり親和的でない...

J.S.ミル著 自由論⑤

J.S.ミル著 自由論⑤ 第五章 適用 2017年1月22日 読了時間:30分 内容について この章は様々な具体例を用いて、この章以前までに述べられてきた原理がどのように現実に適用されるのか、またどのような限界があるのか、が示されています。 まず、ミルはここまで述べてきた原理が二つの格率によって成り立っていることを示します。その二つの格率というのが、 ①個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない、ということ ②他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とするという意見である場合には、個人はそのいずれかに服さねばならないであろう、ということ の二つです。 この二つが、ミルが述べてきた自由と制限に関する原理なのですが、ミル曰く、この原理を現実に適用した際には、その適用は単純なものではなくコンテクストに応じてこれらの格率は限界を持つのだそうです。(つまり、これらの格率は決して絶対的に自由や正当な制限において実現されなければいけないようなものではなくて、正当な制限や自由の状態中には、それらの格率を満たしていないような例外的な状況がありうるということだと思います。) 正直、具体的な限界については様々な例が列挙してあり、どのように整理して記述すればよいのかわからないので、書きません。(もちろん、自分の理解が十分ではないということが大きな要因です(笑)) 限界っていったいどういう意味での限界なんだ、ということがよくわからないとは思うので、ミルが述べている、格率の限界の例を一つだけ書いておきます。 ミル曰く、他人の利益に損害を与えること、もしくは損害を与える惧れがある時にのみ社会の干渉が正当化されるとはいえ、そのことは社会の干渉は常に正当化される、とは断じてはならないのだそうです。 それは、多くの場合において個人の正当な目的を追求することに依って、必然的に―すなわち合法的に―他人に苦痛や損害を与えてしまうことはあるからです。たとえば入学試験では、”合格”という目的追求は、他者に避けがたく”不合格”という損害をあたえます。しかしだからといって個人が合格を目指そうとする行動に社会が干渉をすることは正当ではないでしょう。これ...

J.S.ミル 自由論④

J.S.ミル著 自由論④ 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について 2017年1月22日 読了時間:30分 内容について この章では、個人の自由に対してどのような制限が正当な制限として社会の権威に認められるか、個人はどのような制限を受けるべきか、という問いに応えています。 まず、基本的な姿勢として、ミルは純粋に個人にのみ関わることに関しては社会は一切関与をすることはできず、社会に関する個人の行動のみ社会には制限を行う可能性があるといいます。 それをミルは個人に与えられるべき二つの制限という形で言い換えます。 ①個人は相互の利益を害さないこと ②個人は社会またはその成員を危害と干渉から守るために生じた労働について、各人は自己の分担を負うということ この二つです。 少し複雑になった感じもしますが、基本的にミルのいっていることは個人は純粋にその個人にのみ関することであれば、自由であり社会からの干渉を受けることはない、ということです。 しかし、ここで一つ問題が生じます。それは、完全にある個人にのみにかかわる行為なんて存在するのだろうか、という問題でした。人間はみな社会の中に存在しているので、いかなる行動も他者の利害と結びつき得るのではないか、ということです。そうなると、いかなる行動にも社会からの干渉の余地が生じてしまいます。 これに対してミルは、個人の純粋にその個人にのみかかわるように見える行動が他の成員に影響を与えることの可能性を認めたうえで、こう答えます。 ”個人に対してか、あるいは公衆に対して、明確な損害または明確な損害の危険が存在する場合には、問題は自由の領域から除かれて道徳や法律の領域に移される” しかし、 ”ある個人が、公衆に対する明確な義務に違反することなく、また自己自身以外の、誰それと名指しすることのできる個人に対して明白な損害を与えることもないような行為によって、社会に及ぼす単に偶然的な―あるいは推定的とも呼ばれうるような―損害に関しては、社会はこの迷惑を、人間の自由という一層重大な利益のために耐え忍ぶことができないわけではない” つまり、個人が個人的な行動によって社会に与えてしまう影響については、その個人とその社会への影響が明らかに明確であるという場合を除いては、個人は社会の制限を受ける必要はなく、自由が...

J.S.ミル著 自由論③

J.S.ミル著 自由論③ 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について 2017年1月21日 読了時間:30分 ここまできて改めて気づいたので、メモをしとくんですが、ミルにとって自由というのは幸福の条件の一部なんですね! 内容について この章では、個性の自由について、なぜ人間の個性の発現は制限を受けるべきでないのか(自分自身の責任と危険とにおいてなされる限りにおいての意見の実行についての自由)、ということが社会と個人にとってのメリットの点から論じられています。 この章でミルが個性の発現に対する障害として考えているのは習慣であり、社会が持つ習慣に沿った行動を個人に要請してくる様々な圧力のことです。ミル曰く、社会のそうした傾向は非常に根強く、社会の理知的な側面が多様な個性の存在が社会にとっても個人にとっても有益であることを自覚しない限り、その傾向は変わらないといいます。 それはさておき、ミルの説明を見てみます。 まず、社会にとってはどのようなメリットがあるとミルは言っているのか。 社会が進歩していくためには、変革や進化が必要なのですが、そのためには習慣にとらわれない独創性が必要であるとミルは言います。つまり、習慣からの圧力が強く独創的な天才的な個性が制限され、凡庸であることが美徳として認知される社会では進化や変革は起こらず、濁った水たまりのような社会になってしまうといいます。 故に、社会が変革され発展していくためには、独創性を許容する傾向、つまり、自由な個性が保障されていることが必要であるということです。 次に、個人にとっての側面を見てみます。 ミルの説明によると、人間というのはそれぞれ異なっています。思想や良心も人それぞれ異なっています。それ以外のありとあらゆる側面でも人間は互いに異なっています。つまり、人間が成長するために必要な刺激も個々人の間で異なっているのです。しかし、習慣に基づく平均的な行動しか許されない社会では、個々人が成長のために要求する多様な刺激をカバーすることはできません。つまり、個々人がそれぞれ成長していくためには、習慣にとらわれることのない多様な行動とそれに伴う多様な刺激が必要であるということです。言い換えれば、自由な個性の発現を保障するということは個々人の成長の可能性を広げることでもあり、それがミルの曰く個...

J.S.ミル著 自由論②

J.S.ミル著 自由論②  第二章 思想および言論の自由について 2017年1月21日 読了時間:30分 内容について 序章で述べた自由の三条件(人類の精神的幸福のための条件でもある)のうちの一つ、思想や言論の自由について、人々のそうした自由になぜ政府がいかなる形であっても制限を加えてはいけないのか、また、なぜ政府以外の如何なる権力もそうした思想や言論に如何なる制限も加えてはならないのかについて述べています。 ミルは、その理由について4つの根拠を示します。 ①抑圧を受けたその意見が、真理かもしれないから ②基本的にどの言説も、完全なる真理ではなく誤謬をすくなからず含んでおり、そうした誤謬は対立意見との衝突によってのみ補完され完全な真理へと近づいていくことができるから ③完全なる真理が仮定的に存在を認められたとしても、その意見への挑戦が認められず、受容のみが許されるとき、受容者はその意見の合理的根拠を気に留めなくなってしまうから(合理的根拠を気に留めることが受容者として重要なことであるとミルは考えている) ④教説は受容者の理性や個人的経験と結びつくこと(反対意見との交流などを通して得られる)で受容者の内部にその意見に対する確信が成長するのであるが、意見や教説がそうして受容者の性格的に与えるそうした影響が失われ得るから という理由で、ミルは思想や言論がいかなる意味においても自由が保障されていることが重要であると述べます。 そのうえでミルは、だからといって議論をする者が決してどのような態度であってもよいわけではないということを最後に少し付け加えます。議論を行うものは、公の議論に関する真の道徳に従い議論を行うのが望ましいと述べています。

速読多読 佐藤優著 資本主義の極意

速読多読 佐藤優著 資本主義の極意 2017年1月20日  読了時間:3時間 今年になって初めて書店を先日訪れたので、早速新書を何冊か買ってみました。そのうちの一冊を昨日速読の練習に使ったので、それについて書きます。 内容について この本は、マルクスの資本論と宇野さんという経済学者の理論を組み合わせて資本主義を分析し、資本主義の分析を通して現代社会で起こる様々なことを読み解こうという試みです。 両者の理論を組む合わせる背景としては、資本主義の発展を考えたとき、その核心といえるマルクスの理論は資本主義の起源としてのイギリスでの資本主義の分析には非常に役立つものの、イギリスの資本主義化に影響を受けて後発的に資本主義を発展させてきた日本やその他多くの諸国の資本主義を分析するためには不十分であるためでした。 宇野氏は、資本主義を分析する際には、原論、段階論、現状分析、という三段階の分析を経なければならないと考えており、マルクスの資本論のみによると、原論と現状の間の過程である発展段階が理解できないことになります。こういった理由から、マルクスと宇野氏の理論をこの本では採用しているようです。 まず、マルクスの資本論から資本主義の根幹にあるのは、「貨幣の資本化」という現象と、「労働の商品化」という二つの現象です。 貨幣が生まれる前は、商品が唯一の資本であり、商品が買い手にとってもつ持つ使用価値に基づいて商取引が行われていました。つまり、買い手にとっての実用性と必要性が価値の基準であり、それは安定しないものでした。しかし、しばらくして「貨幣」が生み出されます。貨幣の特徴は「一般的等価物」である、ということです。簡単に言えば、貨幣は使用価値という基準にとらわれることなく、何とでも交換ができうるものであるということです。 そして、貨幣の導入によって商取引のプロセスは、 商品Aー商品B という過程から、 商品A-貨幣ー商品B というプロセスに変わっていきました。 加えて最後には貨幣それ自体が資本(何かを手に入れる元手)になっていきました。 これを「貨幣の資本化」と呼びます。 この貨幣の資本化に加えて資本主義の発生にとって肝要なのが、「労働の商品化」でした。この背景には「無産階級(プロレタリア-ト)」の出現があります。むさんかいきゅうというのは、富を...

J.S. ミル著 自由論①

おはこんにちばんは! 冬休みも終わって、新しい一学期が始まりました。 外は一面の雪景色、授業でもなければあまり外には出たくないですね。 そんなときは、やっぱり部屋で読書が一番です。 さて、というわけで「読書の冬」ということで、今夜は「自由論」を読み始めました。 今日から何日間かで、読んでいこうと思います。目標は週末まで、ということにします。一応速読を心がけて読むので、そんな感じで行こうと思います! J.S.ミル著 自由論① 自由論、きっと皆さんの多くはタイトルはきいたことがあるでしょうし、おそらく読んだことがある人も多いと思います。恥ずかしながら、自分は3年前に買ったのはいいのですが、それからずっと本棚の隅で眠っていて、ようやく長い眠りから覚めました。笑 今日は全部は読めなかったので、第一章の分だけ要約をします! 2017年1月19日 読了時間:30分 要約 自由論は、政治的自由や社会的自由と呼ばれる自由について論じたものである、とミルは初めに述べます。それはどういうことかというと、一言で言えば、個人と権力の関係、もっと言えば、権力に与えるべき制限に関してどのような制限が正当な制限と呼べるのかについて書かれた本であるといえます。 民主主義ではなかった時代について考えれば、権力者VS個人という対比がわかりやすく、権力の制限が権力者の力の制限ということだとわかります。しかし、民主主義の社会ではどうでしょう。民主主義社会は自治的な社会です。市民が市民を統治します。そう言う社会に関して、権力への制限を考える必要があるでしょうか。言い換えるならば、市民が市民を統治する社会としての民主主義社会においては、権力者と市民が等しくなっているように思えます。つまり、権力者へと市民が制限を加えることを考えるとき、それは市民が市民自身に制限を加えることを考えることになります。自分自身が自分自身の自由を妨害してしまうことがあるでしょうか?もしもないのなら、こんなことを考える必要は無いようにも思えますよね。 ですがミル曰く、民主主義社会において「自治」が意味するところは、決して自分自身が自分自身を統治することではないのです。「自治」という言葉が意味するところは、実際は「多数派」が「個人」を統治するということなのです。つまり、民主...