オリエント急行殺人事件と正義の哲学
オリエント急行殺人事件と言えば、ミステリーの女王アガサ・クリスティーの代表作であり、ミステリー作品の古典的名作の一つでもある。と言ったものの、お恥ずかしながら名前は聞いたことがある程度で、私自身は内容を最近まで一切知らなかった。そんな私だが、最近になってその作品について知る機会を得た。
それは友人との映画鑑賞だった。オリエント急行殺人事件は、最近映像化されており日本では2017年12月8日の金曜日に一般公開されているのであるが、私は映像化されたその作品を鑑賞したのだ。
さすがに古典の名作というだけあって、とても良くできた物語であり、ミステリーならではの謎解きの楽しみだけではなく、社会への大きな問いかけを含んだ内容であった。今日は、オリエント急行殺人事件という作品が社会へ投げかけている一つの問いについて、考えたことをまとめようと思う。
ここで考えたい問いはこの作品の内容と深く結びついているので、内容に触れずに問いのみを抽出し議論することはできない。そのため、まずはこの作品のストーリーについて簡単に説明をするところから始めようと思う。しかし、ミステリー作品は他の如何なるジャンルの作品にもまして結末が重要な類の作品だ。結末のわかり切った推理小説ほど味気のないものもないだろう。だから、結末をまだ知りたくない、という人はどうか読むのをここでやめて、一度作品に触れてから戻ってきてほしい。
さて、それでは内容についてまずは簡単に説明をする。
主人公は世界的名探偵エルキュール・ポアロ。冒頭、彼はさっそく一つの事件を鮮やかに解決して見せた。僅かな証拠にもかかわらず、犯人を見つけ出したことに驚いた人がその理由を問いかけると、彼はこう答えた。
「この世界には善か悪、そのどちらかしかない。その中間は無いのだ。そして、私にはそれがわかる。」
彼は、この世界における善と悪をはっきりと見極めることができる。つまり、善人と悪人も彼にとっては一目瞭然なのだ。だからこそ、彼は事件の犯人も簡単に見つけることができるのだ、という。
冒頭の事件を解決した直後、彼の元に新たな事件の知らせが届く。新たな事件の現場へと向かい、事件を解決すべく彼はオリエント急行に急遽乗車することになった。そして、偶然乗車した列車の中で奇妙な事件に遭遇することになる。
高速で走る列車内で、一つの殺人事件が起こった。殺されたのは骨董商の男で、容疑者は同じ号車に乗車していた12人の乗客。調べていくと一つの事実が明らかになった。それは、容疑者12人の全員が過去に起こったとある殺人事件によって深い悲しみを背負わされており、その事件の犯人が列車内で起きた殺人事件で殺された骨董商の男である、という事実だった。
全員に殺人の動機があるが、それ故に犯人を絞り込めない。悪戦苦闘するもポアロは一つの結論にたどり着く。そして、それは全員が犯人という奇妙な結論だった。この事件は、12人の乗客が全員で計画し行った犯行だったのだ。
12人の乗客は殺人という罪を犯した。しかし、彼らを突き動かしていたものは、かつて理不尽に奪われた命に対する愛であり、深い悲しみであった。一方で、殺された男はかつて殺人を犯し、その後も罪の意識にさいなまれることなく人を騙し続け、ずる賢く生きてきた一人の極悪人だ。
「この世界には善か悪か、そのどちらかしかない。その中間は無いのだ。」
そう明言していたポアロであったが、この事件において善とは何であり悪とは何であるのか、彼にはそれが判断できなかった。
悩んだ末、物語の最後にポアロが出した結論は、真相を闇に葬ることであった。
「この世界には善と悪そのどちらかしかない、そう考えてきたが、今回だけはどちらでもないアンバランスの存在を受け入れよう。」
最後にそう言い残して、ポアロは列車から降りていった。
人を殺すことが悪であることは、一見すると誰から見ても明らかなことで、議論の余地のないことのように思える。では、この作品で描かれている殺人も明らかに悪であり、そこに議論の余地はないのだろうか。私はそこに議論の余地はありうると思うし、アガサ・クリスティーや少なくともポアロは私の主張を理解してくれると思う。
なぜ、私はオリエント急行殺人事件における殺人の善悪に議論の余地があると述べたのか。それは、正しいことを測る尺度は決して普遍的なものではないからである。確かに、私たちの社会には法律や憲法というものがあり、それらによって極めて具体的に私たちの行動は制限されている。その意味では正しいことを測る具体的な尺度として、法律や憲法が機能しているともいえるだろう。しかし、そうした法律や憲法には必ず、それらが基盤としている思想や価値観がある。そして、基盤としての思想や価値観は多様に存在しており、どの思想や価値観が最も優れているのかについて、これまでも数々の論争が繰り広げられてきた。その意味において、正しいことを測る尺度は普遍的ではない、と私は述べたいのである。
正しいことを測る尺度が異なると、同じ行為に対する評価はどのように変わってしまうのか。ここでは、功利主義という考え方と、ジョンロールズによって述べられた「公正としての正義」という考え方に基づきながら、オリエント急行殺人事件の殺人の善悪について考えることで、それを考えていきたい。
まず功利主義は、ジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉にその基本的な思想が要約されている。噛み砕いて言えば、ある行為は、その行為が生む幸福の総和が、同じ行為が生み出す不幸の総和を越える限りにおいて正当化される、という考え方である。即ち、結果をより重視し、結果的により多くの人が幸福になるのであればその行為は正当化されるということだ。
一方で、「公正としての正義」とは、「平等な自由」と「格差原理」の二つの原理を中心とする思想である。「平等な自由」とは、各人の自由はすべての他者が持つ同様の自由と相容れる限りにおいて認められる、という原理のことだ。同様に「格差原理」とは不平等はそれがすべての人にとって利益を与えると認められる場合においてのみ正当化される、という原理のことである。
この二つの思想の最も大きな違いは、個々人をどのように見ているか、という点にある。功利主義においては、個々人というのは幸福と不幸の単位でしかない。それ故に、少数派の人々を犠牲にすることで、多数派が幸福を得ることを時として正当化することになる。しかし、「公正としての正義」では、すべての個人が平等に尊重されるため、ある個人を犠牲にしてそのほかの個人が幸福を得ることを決して良しとしない。
このような二つの思想をオリエント急行殺人事件に適用してみると、作品中の殺人にはどのような評価が下されるだろうか。功利主義を適用して考えてみると、今回の殺人は少なくとも必ずしも不正義であるとは言えないと思われる。確かにこの殺人を通して一人の命が奪われており、それは大きな不幸である。しかし、そうは言ったものの、同時にこの殺人を通して12人が救いを感じており、この意味ではこの殺人は多くの幸福をもたらしたともいえる。幸福と不幸を天秤にかけて測ることは常に容易ではないが、いずれにしても議論の余地はありそうである。
対称的に、「公正としての正義」を適用して考えてみると、作中の殺人は明らかに正当化されうる行為ではない。なぜならば、理由はどうあれ殺人という行為が「平等な自由」によって認められている自由の範疇を大きくはみ出しているからである。今回のケースの場合、被害者は過去に殺人を犯しているから、彼は彼自身の「平等の自由」やそれに基づく権利を主張することはできない。しかし、それは他者が正義の二つの原理から逸脱した形で彼を扱うことを正当化するわけではない。正義の原理の参加者である以上、正義の制度を脅かすようなことをしてはならないのである。
ここまで見てきたように、正しいこととは何か、ということについて、価値観や思想は多様に存在している。そして、どのような思想や価値観に基づくのかによって、同じ行為であっても、その行為が正しいのか間違っているのかについての評価は変わってしまうものだ。言い換えれば、私たちの社会において正義と不正義の境目は普遍的ではないのである。
もちろん、私たちが普段、正しいことの基準にしている法律や憲法ですら、決して普遍的なものではない。だからこそ、私たちは社会における正義について、一歩引いたところから客観的に眺めることでその背景にある思想に目を向け、その意味を客観的・価値相対的に考える視点を持つことが重要なのだと思う。
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