不平等問題のダブルスタンダードと「能力主義的差別」 苅谷 剛彦

西欧の階層研究においては、家庭的な背景と学力の関係は広く認められていたし、学校が階層間の不平等や格差を再生産する装置であることは一般的な事実として認められていた。日本の階層研究においても、そうした西欧社会の研究は広く受け入れられていた。しかし、日本社会の全体を見たとき、研究者の常識は、一般的なものとして受け入れられてはいなかった。
日本において教育と差別が議論されるとき、教育差別として問題にされるものは、生徒を学力に基づいて序列化することを通して学力の低い生徒に『差別感』を与えることであった(能力主義的差別―能力に基づいてできる子とできない子を差別化して、できない子に差別感を与えること)。そして、これは、『社会的カテゴリーに基づいた不当な差異的処遇』を指す差別という言葉が持つ本来の意味とは別のものを指していた。ここにおいて、『差別のダブルスタンダート』が生じたのである。そして、日本における教育差別議論では、生徒間に差異があるということを強調することそれ自体が教育差別であるとみなしたため(前者の『差別』が差別議論の中心であったため)、生徒間の差異をなるべく不可視化しようとする姿勢が支配的であった。
そうした中にあっては、生徒の能力は押しなべて等しいとみなすような能力論・素質論が蔓延しており、学力の格差に目を向けること自体がタブー視されていた。そのため、学力格差と家庭的な背景と結びつけて議論することもタブー視されていた。
しかし、教育と家庭的背景の関連を不可視化しようと試みていた日本社会においても、同和問題は家庭的背景と教育達成を関連付けて語らざるを得ないような問題であった。(社会的なカテゴリーに基づいた不当な差別的処遇としての『差別』を問題にしなければいけないような問題であった。)同和問題について、同和地区の子どもの教育困難自体を無視することを通じてジレンマを解消しようとする方法もあった。だが一方で、ジレンマを解消するそれ以上に重要な方法は、同和問題を例外として語ることであった。即ち、『差別のダブルスタンダート』に基づいて一般的な教育の不平等の問題と同和地域の不平等の問題は別である、とする『不平等問題のダブルスタンダード』を用いることに依る解決であった。
こうしたダブルスタンダードの存在が、日本社会において同和地区に関する議論では学力と家庭的背景の間の関係が議論されるのに、それ以外では学力と家庭的背景の関係が議論されないという奇妙なコントラストや、同和地区の教育における議論においても『地区か地区外か』という変数は語られるにも関わらず、『単なる階層差』という変数についてはあまり語られないというこれまた奇妙なコントラストを生じる基盤になっていたのである。


出典:『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会へ』2001年

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