ニューカマーの子どもの学校教育―日本的対応の再考 太田 晴雄
ニューカマー(などの外国人のこども)への日本の学校の対応の特徴として、『内外人平等の原則の不徹底』(外国人を義務教育の適用対象外とすることや、義務教育として認められる教育が国民教育に限るということ―即ち、民族学校などは正統な教育として認められていないこと―など)『適応教育の強調』(学校内部においては日本人と同等の扱いを受けることを求められること。それ故に教育的配慮も日本人と同様な扱いを可能とできる程度までに留まるような平等主義的な配慮―equity【結果の平等―公平】ではなくequality【等しく扱うこと】中心であること。例えば、日本語指導も学習や授業理解に必要な日本語の能力を養うためではなく、日本人の子どもと同様の扱いを成立させるための最低限の日本語能力を身に着けさせるためである。)『日本人のための学校への一方的適応』(外国人がもつ異文化性や独自性を尊重するのではなく奪い取り、日本人のための学校―日本国民を育成するための学校―への適応を強制することで一方的な日本人化をすること)が挙げられる。
こうした日本的対応は『国民教育の枠組みの中で行われる適応教育』という点にあると要約できる。そしてこれは、米国における従来のマイノリティ教育の特徴であった『奪文化化』(Deculturalization)を彷彿とさせる。『奪文化化』とは、『ある集団から文化を奪い、彼らになじみのない新たな文化を強要すること』と定義される。
日本のニューカマーへの教育対応が『奪文化化』を彷彿とさせる根底には、日本的な対応が『国民教育』(近代国民国家体制の下で行われる、国民的同質性の形成、その維持・強化に主眼を置いた教育)の枠組みで、そうした対応が行われていることがある。
即ち、国民教育の価値観に基づいて公教育の対象を日本人(日本国籍を持つもの)のみに限定し、教育内容も日本人教育と規定することが、義務教育諸学校への外国人児童生徒の就学に関する二つの原則(①就学の機会は『許可』〔義務や権利ではなく〕として提供され、②就学後は日本人と同様に扱われる)を帰結する。そして、日本人と同様に扱うことを実現するための『適応教育』が外国人の子どもの固有の文化を無視するか、抑圧してしまうのだ。
この『国民教育』のパラダイムに変わる新たなパラダイムとして考えられるのが『多文化教育』である。多文化教育とは、ドミナントな文化への一方的な適応を強要する同化教育への否定を起点として概念化された、『奪文化化』によって抑圧、否定されてきた諸集団の文化ないしアイデンティティの復権及び承認を求める教育を指す。言い換えれば、多様性(Diversity)に根差した公正(Equity)への標榜に特徴づけられるのが多文化教育である。
しかし、国民教育から多文化教育へのパラダイム転換は、国民教育がよって立つ国民国家体制に変わる体制が確立されていない現在において、容易なことではない。つまり、単純な国民教育の否定によって多文化教育の可能性を掲げることはできない。故に、ここでは今日的な国民国家と国民教育の関係を批判的に捉えなおすことを通じて、『脱国民教育』としての多文化教育の可能性を考える必要がある。
昨今、国家間のボーダーレスな社会がボーダーレスな社会問題とともに出現し、国家を越えた普遍的意思形成の重要性などが議論されるに付けて、国民教育がよって立つ国民国家という概念には揺らぎが生じている。(従来の国家概念の再検討の必要性が高まりつつある。)特に、国家間の人の移動の流動化は、『国民によって構成される国家』という従来の枠組みの妥当性に大きな問を呈している。そうした疑問に対して、国家を同じ国籍を有する個人によってのみ構成される国民共同体としてではなく、すべての個人を社会の構成員と認める住民共同体として再定義することに依って応えようとする一つの試みがある。即ち、『国民』は『国籍を持つ住人』ではなく、『国を構成する住民』となるのである。これによって、基礎的な教育を受ける権利をより普遍化することが可能となる。また、日本語を『国語』として定立させることで日本語を母語としない子どもたちに日本語学習を強要する姿勢も見直しを迫られる。このように、『国民教育』を批判的に再考することを通じて『脱国民教育』としての『多文化教育』の可能性を構想することができるのである。
出典:『ニューカマーの子どもと日本の学校』国際書院、2000年
こうした日本的対応は『国民教育の枠組みの中で行われる適応教育』という点にあると要約できる。そしてこれは、米国における従来のマイノリティ教育の特徴であった『奪文化化』(Deculturalization)を彷彿とさせる。『奪文化化』とは、『ある集団から文化を奪い、彼らになじみのない新たな文化を強要すること』と定義される。
日本のニューカマーへの教育対応が『奪文化化』を彷彿とさせる根底には、日本的な対応が『国民教育』(近代国民国家体制の下で行われる、国民的同質性の形成、その維持・強化に主眼を置いた教育)の枠組みで、そうした対応が行われていることがある。
即ち、国民教育の価値観に基づいて公教育の対象を日本人(日本国籍を持つもの)のみに限定し、教育内容も日本人教育と規定することが、義務教育諸学校への外国人児童生徒の就学に関する二つの原則(①就学の機会は『許可』〔義務や権利ではなく〕として提供され、②就学後は日本人と同様に扱われる)を帰結する。そして、日本人と同様に扱うことを実現するための『適応教育』が外国人の子どもの固有の文化を無視するか、抑圧してしまうのだ。
この『国民教育』のパラダイムに変わる新たなパラダイムとして考えられるのが『多文化教育』である。多文化教育とは、ドミナントな文化への一方的な適応を強要する同化教育への否定を起点として概念化された、『奪文化化』によって抑圧、否定されてきた諸集団の文化ないしアイデンティティの復権及び承認を求める教育を指す。言い換えれば、多様性(Diversity)に根差した公正(Equity)への標榜に特徴づけられるのが多文化教育である。
しかし、国民教育から多文化教育へのパラダイム転換は、国民教育がよって立つ国民国家体制に変わる体制が確立されていない現在において、容易なことではない。つまり、単純な国民教育の否定によって多文化教育の可能性を掲げることはできない。故に、ここでは今日的な国民国家と国民教育の関係を批判的に捉えなおすことを通じて、『脱国民教育』としての多文化教育の可能性を考える必要がある。
昨今、国家間のボーダーレスな社会がボーダーレスな社会問題とともに出現し、国家を越えた普遍的意思形成の重要性などが議論されるに付けて、国民教育がよって立つ国民国家という概念には揺らぎが生じている。(従来の国家概念の再検討の必要性が高まりつつある。)特に、国家間の人の移動の流動化は、『国民によって構成される国家』という従来の枠組みの妥当性に大きな問を呈している。そうした疑問に対して、国家を同じ国籍を有する個人によってのみ構成される国民共同体としてではなく、すべての個人を社会の構成員と認める住民共同体として再定義することに依って応えようとする一つの試みがある。即ち、『国民』は『国籍を持つ住人』ではなく、『国を構成する住民』となるのである。これによって、基礎的な教育を受ける権利をより普遍化することが可能となる。また、日本語を『国語』として定立させることで日本語を母語としない子どもたちに日本語学習を強要する姿勢も見直しを迫られる。このように、『国民教育』を批判的に再考することを通じて『脱国民教育』としての『多文化教育』の可能性を構想することができるのである。
出典:『ニューカマーの子どもと日本の学校』国際書院、2000年
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