進学に向けて③ 教育に関する外国人の権利と義務

さて、クイズです!
問題:
外国人は日本において教育を受ける権利が日本国民と同様に一応保障されています。
そこで問題です。外国人の子どもの親には日本国民それと同様に、子どもに教育を受けさせる義務があるでしょうか。

選択肢:
①もちろん、ある
②いや、ないね

正解は、②です!
正解者の方おめでとうございます!

簡単だったでしょうか?
簡単だったかもしれませんね。

では、外国人に義務が義務化されていないことで、どのような問題があるのかをご存知ですか?
今日はその「日本における外国人の教育を受ける権利と義務教育」について少しまとめます。

さて、初めの問題の中で述べたように、外国人にはもちろん、教育を受ける権利があります。それは日本においても保障されています。この根拠としては、20世紀末における「子どもの権利条約」など、そのほかにもいくつかの国際条約があり、日本はそれらを批准しているためです。

これがどういう意味かというと、”日本においても、外国人であろうと、望めば教育を受けることが保障されているし、そのコストも日本人と同様に無料である”ということです。
これを聴くと、なんとなく、外国人にとっても日本人と等しい教育制度が実現されていて、地位の違いによって生まれる教育問題なんてないように思えます。

しかし、実はそうではないんです。
「不就学」という言葉を聞いたことがありますか。
不就学の子どもというのは、学齢に達しているにも関わらず、いかなる学校に所属することもない、すなわち、教育から排除されている子どもたちのことを指します。
日本は、義務教育が制度化されていますら、一般的には不就学の問題は可視的ではありません。しかし、不就学の問題が存在していないわけではないのです。

そして、この不就学という問題が、外国人の子どもと義務教育という今日のテーマと大きく関わりをもっています。

まず、先程も述べたことと重なりますが、日本においては、義務教育が制度化されていますので、不就学はほとんど存在しません。仮に、日本人の義務教育学齢期の子どもが学校に行っていないことがわかれば、すぐに学校に入れられる努力が行われるためです。

では、なぜ、日本においても不就学という問題が存在してしまうのか。
それは、外国人の子ども―日本国籍を持っていない子ども―には義務教育が適用されないからです。
つまり、日本人の子どもが学校に行っていないケースと違って、外国人が学校に行っていないケースは、軽視され行政側の対応も消極的になる傾向があるのです。そして、結果として不就学の子どもが生まれてしまうというわけです。

そうしたこどもたちが不就学に陥る背景には、様々な要因があります。そしてその多くが社会的な要因です。家庭の経済状況、両親の価値観、両親の無知、学校の構造、などがそのうちに含まれるでしょう。

こうした社会的な要因によって、結果として、子どもたちの教育を受ける権利や将来の機会が剥奪されてしまう状況があることに対して、みなさんはどう思いますか。
直ちに外国人にとっての義務教育も制度化して、そうした子どもたちをしっかり教育の器の中に収めてやるべきだと思いますか。


しかし、情況は単に義務教育の制度化だけで解決が成されるような、そんなに単純でもないみたいです。

まず、前提的な情報として、国の政府がなぜ外国人の教育を義務化しないのか、ということの理由ははっきりしたものではありません。なんとなく「教育は良き国民の人格形成のため」と考えられているため、国民に含まれないものは教育の対象として必ずしも含まれていななければならないわけではないから、というような立場をとっているようです。

そして、その「国民形成と教育」という立場と関わる別の論点として、教育の選択権というものがあります。日本の政府は教育に対してかなり国民国家としての顔を強く打ち出していることは先に述べましたが、それに対応して、日本の教育はかなり国によって制限を受けており、あらゆる面で大きな規制があります。具体的には、教育内容も国が定める学習指導要領によって規定されていますし、教科書も文科省に依る厳しい検定を通らなければいけません。

もしも仮にこの立場国が維持したまま、外国人に義務教育を適用した場合何が起こるでしょうか。
たとえば、日本には朝鮮学校や、ブラジル人学校に代表される外国人学校といわれる学校があり、多くの親子がそれを利用しています。なぜでしょうか。

それは、それらを利用する人たちは、かれ/彼女たちの母語や母国の文化を重要視しており、それらは日本の普通の学校の教育を通してでは継承できず、それどころか消失してしまう恐れさえあるからです。

つまり、日本が外国人に義務教育を適用しないのには、そうした外国人特有の教育関心があり、それに基づいた外国人の自由な教育選択の自由を尊重するという立場があるという側面もあるのです。


ここまで、「教育の義務化」と「教育の選択の自由」の間の衝突をみてきましたが、この衝突は解決しようがないものなのでしょうか。日本の教育のどこに問題がありこうした衝突が生じてしまっているのでしょうか。

まず、そもそも、なぜこの衝突が生じてしまうのか、を考えてみます。
先程述べたように、日本においては、教育に対する基本的な考え方に、「国民国家」を維持していくための機能というような側面が前提視されています。つまり、教育は国民のためのものである、国民を形成するためのものであるという考え方です。そして、重要なのは、この前提において、「社会のメンバーとしての外国人」つまり、「定住者(デニズン)としての外国人」の地位が想定されていない、ということです。
しかし、これは社会の現状にそぐわない社会認識を投影しているといわざるを得ないでしょう。

事実、日本においては相当数の定住外国人が存在しています。日本の入管法上、その多くは日系人やその家族、もしくは日本人の配偶者等ということもあり、エスニックには日本人であるかもしれません。しかし、であるからといって、彼らは日本文化に適合的であるでしょうか。言い換えれば、日本人と同等と扱ってよい存在でしょうか。

それには”NO”と言わざるを得ません。
彼らは、エスニックなつながりがあるとはいえ、社会学的には完全な外国人なのです。
つまり、日本社会には「定住外国人」という集団が間違いなく存在しているのです。
それを考えれば、日本政府の教育観が現実と乖離していることは自明です。

少し話題がそれましたが、ここでの論点に戻れば、「教育の義務化」と「教育の選択の自由」の間の衝突は、この日本政府の教育観が問題なのではないか、ということがここで述べたいことです。

つまり、日本政府の国民国家の側面を強調した教育観を「パーソンフッド(人権的な)」側面に焦点を当てた「良き市民を形成するための教育」という形にシフトすれば、義務教育を実現しつつ、それぞれの民族や文化に応じた教育選択の自由と抵触しない形の教育を構築することは可能であり、それこそが求められている教育のあり方なのではないか、ということです。

子どもの権利条約には、初等教育はすべての子どもにとって無償であり、且”義務的”でなくてはならない、という文言があり、先ほども述べたように日本はこの条約を批准している。であるならば、日本政府は国籍を問わず、教育の義務化を進めるべきであり、もしも、義務化の過程で何か問題が生じるのであれば、義務化の促進ということを最優先に、且、個人の人権との間に抵触がないような制度設計を妥協とともに行って行くべきであろう。


参考文献
宮島 喬(2014) 「外国人の子どもの教育」 東京大学出版
丹野 清人、樋口 直人(2005) 「顔の見えない定住化」 名古屋大学出版会

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