J.S. ミル著 自由論①
おはこんにちばんは!
冬休みも終わって、新しい一学期が始まりました。
外は一面の雪景色、授業でもなければあまり外には出たくないですね。
そんなときは、やっぱり部屋で読書が一番です。
さて、というわけで「読書の冬」ということで、今夜は「自由論」を読み始めました。
今日から何日間かで、読んでいこうと思います。目標は週末まで、ということにします。一応速読を心がけて読むので、そんな感じで行こうと思います!
冬休みも終わって、新しい一学期が始まりました。
外は一面の雪景色、授業でもなければあまり外には出たくないですね。
そんなときは、やっぱり部屋で読書が一番です。
さて、というわけで「読書の冬」ということで、今夜は「自由論」を読み始めました。
今日から何日間かで、読んでいこうと思います。目標は週末まで、ということにします。一応速読を心がけて読むので、そんな感じで行こうと思います!
J.S.ミル著 自由論①
自由論、きっと皆さんの多くはタイトルはきいたことがあるでしょうし、おそらく読んだことがある人も多いと思います。恥ずかしながら、自分は3年前に買ったのはいいのですが、それからずっと本棚の隅で眠っていて、ようやく長い眠りから覚めました。笑
今日は全部は読めなかったので、第一章の分だけ要約をします!
2017年1月19日
読了時間:30分
要約
自由論は、政治的自由や社会的自由と呼ばれる自由について論じたものである、とミルは初めに述べます。それはどういうことかというと、一言で言えば、個人と権力の関係、もっと言えば、権力に与えるべき制限に関してどのような制限が正当な制限と呼べるのかについて書かれた本であるといえます。
民主主義ではなかった時代について考えれば、権力者VS個人という対比がわかりやすく、権力の制限が権力者の力の制限ということだとわかります。しかし、民主主義の社会ではどうでしょう。民主主義社会は自治的な社会です。市民が市民を統治します。そう言う社会に関して、権力への制限を考える必要があるでしょうか。言い換えるならば、市民が市民を統治する社会としての民主主義社会においては、権力者と市民が等しくなっているように思えます。つまり、権力者へと市民が制限を加えることを考えるとき、それは市民が市民自身に制限を加えることを考えることになります。自分自身が自分自身の自由を妨害してしまうことがあるでしょうか?もしもないのなら、こんなことを考える必要は無いようにも思えますよね。
ですがミル曰く、民主主義社会において「自治」が意味するところは、決して自分自身が自分自身を統治することではないのです。「自治」という言葉が意味するところは、実際は「多数派」が「個人」を統治するということなのです。つまり、民主主義以前の社会で「権力者」が占めていた立場を、「多数派」が占めることになり、すなわち、ここで考える権力の制限とは、「多数派」が「個人」の上に持つ権力についての制限であるということです。
そして、正当な権力の制限とは何かという問題(権力の個人への干渉についてどのような干渉の仕方が正当か、という問題)について、ミルは一つのわかりやすい原理を提示します。それは、自己防衛の原理です。これはどういう原理かというと、簡単に言えば、「権力が個人への干渉を許されるのは、ある個人がほかの個人の自由を制限してしまうような場合のみである」ということです。
ところで、個人の自由という言葉が出てきましたが、個人の自由が侵されたか否かを正当な干渉の判断に利用する以上、個人の自由とは何を指すのか、自由とはどのような状態なのかが定義されなければなりません。そして、ミルはそれについても触れています。ミル曰く自由が保障されているとき、個人は三つの領域の自由が保障されている必要があるそうです。
第一に、内面的領域(良心の自由、思想および感情の自由を含む)
第二に、嗜好および目的追求の自由
第三に、個人相互間の団結の自由
この三つが保障されている状態を個人の自由が保障されている状態といい、これらのいずれか一つでも保障されていない場合はその個人は(如何なる政治体制の下にあろうと)自由な状態にあるとは言えないのだそうです。
以上が第一章の内容(僕の理解)になります。
第二章は一番長いので、気合を入れて速読していこうと思います!
それでは、また!
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