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デュルケム 自殺論 要約(というより読書ノート)②

デュルケム著 自殺論 要約(読書ノート)② 第一編 非社会的要因 第二章 自殺と正常な心理状態―人種、遺伝 この章では、自殺の非社会的な要因であり、かつ、正常な心理状態において考えられる要因について、その自殺傾向との関係を分析しています。 まず、人種と自殺傾向についての分析。 デュルケムは、人種の定義とは何か、という議論からこの章をはじめる。 そして、そこにおいて、人種というものはそもそも定義が明確なものではなく、それ故にそのような曖昧な枠組みしか持たない概念と、自殺傾向という概念の関係性を明らかにしようというその試み自体、成立するか疑問を呈している。 その前提の下、先行研究においてある程度の正当性を得ている、モルセッリの人種の四分型を基本として、人種と自殺傾向の関係を吟味するが、人種と自殺傾向の間に統計的な相関は見いだせず、両者の関係を否定している。 次に、デュルケムは人種と自殺の関係を述べる理論が、暗黙のうちに前提としている、遺伝と自殺の関係を吟味している。 まず、自殺と遺伝の関係を指示する研究内容として、いくつかの精神病患者の研究を紹介するものの、そこで示される遺伝の効果は、自殺傾向の遺伝ではなく、自殺に帰結する可能性がある(必ず自殺と結びつくわけではない)精神症状や精神異常が遺伝よって受け継がれることの可能性に過ぎず、遺伝が自殺傾向と結びついているということを示すには十分ではないとする。 加えて、一見して自殺が遺伝するように見えるケースは、自殺が持つ強迫観念のような伝染力に依るものである可能性を示す。(デュルケム曰く、この議論は後の章で深めるらしい。) ここまでの議論に加えて、自殺の遺伝を否定するような更なる統計的な情報をデュルケムは提示する。 まずは、自殺と性差の関係。もしも、自殺が遺伝的なものであるのならば、性別によってその傾向において差は生じ得ないことになるが、実際の統計的なデータでは、男子の自殺数が、女子の自殺数を遥かに上回っている。 加えて、もしも、自殺が遺伝であるのであれば、その遺伝の傾向は自殺が精神的にも肉体的にも可能になる年齢、即ち、体の成熟が自殺に十分なレベルに達した時点において一挙に発現し始めるはずであろう。しかし、実際の統計はそれと相反する内容を示す。自殺に十分な成熟は子どもの時点ですでに成し遂げられる...

デュルケム 自殺論 要約(というか読書ノート)

今日からぼちぼちデュルケムも読んでいきたいと思います。 読解力が低いので、要約(読書ノート)の質もあまり正確なものではないと思いますが、まとめていきます! このノートは、読了しなおしたり、内容について新たな理解や、自分の勘違いを見つけるごとに更新していこうと思いますので、僕は死んでしまうまで、つまり今から大体90年後くらいまでは、暫定的なものにすぎません!笑 デュルケム自殺論 第一編 非社会的要因 第一章 自殺と精神病理的状態 第一編で、デュルケムは自殺が非社会的なものかどうかを検証すべく、自殺についてその原因として可能的な要因について検証していく。 まず、第一章では、精神病理的状態をその最初の検証対象とする。 まず、自殺が精神病理であるとした考え方として二通りを上げる。 ・自殺それ自体がある固有の精神病理的特徴によって引き起こされているというもの ・自殺は特定の一つの精神的病ではなく複数の複合的な精神的病理によって起こるものである、とするもの デュルケムはまず、後者を言説としての厳密性や根拠にかけるとして否定する。 前者について、もしも自殺に必ず帰結するような精神病理的症状が存在するとすれば、精神病理学的において”偏執狂”とよばれるものであろうとデュルケムは仮定する。 いわゆる偏執狂とは、ある特定の行為に対して不条理な欲望を突発的に抱くこと以外を除いては正常な状態のことである。 しかし、この偏執狂というものは実際に存在するのかということについては如何なる積極的な証拠はない。即ちそれがあることもないこともどちらも証明できないのである。 また、一般的に偏執狂として認識されているものも、もっと一般的な精神異常状況の一つの表れとしてにすぎず、ある特殊な傾向に対するもののみととらえることはできない。つまり自殺を突発的な衝動で行ってしまう偏執狂のような人間がいたとしても、その自殺は、自殺と特定に結び付いた自殺狂というようなものではなく、精神異常を持った人間が持つ異常な傾向性がたまたま自殺に方向づけられた結果に過ぎないのである。 このほかにも精神的な病理としての自殺が考えられ得るケースはありうるが、どの形の自殺においても、自殺を恣意的に病理として定義することに依って病理と主張するのであり、客観的な病理性が認められるわけではない。 よって...

徒然日記 ゆる~く行きます 2016年10月19日

徒然日記 10月19日 今日も平日です。何かをまとめて書くには一日に学んだことが一貫性のあるようなものではないので、今日も徒然ととりとめもなく、今日したことをゆる~く書いていこうと思います。 まず、今日も小説の書き方についての本を読みました。1章だけさらっと読みました。 第1章は、アイディアと構成ということで、構成パターンの基本的な流れ、構成の発想につながる日常的習慣、そして、登場人物の描き方やに登場人物に求められる要素などを具体的な例を示しながら教えてくれました。著者の方は、忠臣蔵がすきすぎて、第一章の半分くらいは他の作品と比較して忠臣蔵がいかに優れているかについて述べていました。でも、著者の示す忠臣蔵の良さというものは、象徴の効果や小説ならではの余計な描写の効果などなど納得のいくものばかりで、忠臣蔵テーマにした様々な作品に触れてみたいと思わせてくれました。 この章で自分としてぐっと来たのは、小説は人間を描くものであるという、著者なりの小説の根本への言及でした。小説はあくまでも現実と似ているようで現実ではないもう一つの世界への招待状です。なので、そこには完全無欠な人間を描くこともできます。どこを切ってもポジティブな情報しか出てこないような人間を描くことだってできるわけです。でも、そんな小説は決して面白くはならないと、著者は言います。「小説は書くのも読むのも人間である」という著者の言葉にその理由は凝縮されているようにも思います。小説を書くという作業がが人間を描く作業であるというのは、ほめられるような一面があれば、不完全さを感じさせる一面もある、また、成熟と同時に青さを残しているようなそんな生き生きとして存在としての人間を描く作業であるということです。話の筋道を描くときも、登場人物に命を与えるときも、その根本を忘れてはならないということです。 ここで終わればいいのですが、小説は現実と似ている現実ではない世界を描くことである説くことに少し加えていこうと思います。「小説は現実より奇なり」という言葉があります。意味は読んで字のごとくです。すなわち、小説は現実をはみ出ていいし、むしろはみ出なければ面白くはない、ということです。シンプルな言葉ですが、これも小説の根本の一つなんです。 たとえば、登場人物を描く作業があります。そして、そうして描かれる登場人物の中には...

徒然日記 ゆる~くいきます 2016年10月18日

徒然日記 今日は今日考えたことや今日勉強したことをさら~っと書きます。 最近は、少し前に書いたようにマイブームというか、日課が速読で、暇があれば常に本を読んで生きています。複数冊を同時に読むのがよいということなので、今は同時に5冊か6冊ぐらいを適当に読んでいます。 速読なのであまり時間をかけないように読むのですが、最近は本気で大学院に進学することを意識しているので、学部を明確に決定するべく、その候補の一つである教育社会学の教科書には少し時間をかけてじっくり読んでしまいました。 読んだテーマは”学校に行かない子ども”というものだったのですが、一般的に不登校と呼ばれる問題と似ていますが、それ以上にはるかに広くて、捉え方考え方によっては教育の核心的な問題(なぜ学校に行くのか、誰が学校に行くことを求められているのか、学校に行かないということはどのように語られているか、学校に行かないことは何を意味するかなどなど)まで考察を深めていくきっかけとなるような問題なのだということを知りました。 それから、社会問題に対する本質主義的なアプローチと構築主義的なアプローチのそれぞれの定義や互いの相違、それから長所や短所などの特徴を知りました。同じ問題でも違うアプローチがあり、用いる方法に応じて全く違く解決策や結論を導くことが出来るという事実は、デューイが言っていたように、二元的な対立の認識論でものを見るのではなく、様々な視点から複眼的にものを見ることができることの重要性を改めて教えてもらった気がします。 後、最近小説ってどうやって書くんだろうということが気になって、今日は小説の書き方を少しだけ勉強しました。同じような感情描写でも表層的なものから深層的なものまで、書き方一つでこんなにも違うものなのか、ということに驚きました。あと、小説は事実を描写するのではなくて、小説の雰囲気を作る表現が重要であるという文章は、個人的にすごくグっと来た感じがします。小説を読む時は、どういった表現によってこの小説は独特の雰囲気を醸しだしているのだろうかと注意をして読めたら、小説の深味は一層増すのだろうなと思います。 それから、今日は少しだけ、すっごく適当ですっごい軽い文化人類学の親書を読んだのですが、人は動物が嫌いなんですって。動物が嫌いだから、人間社会に介入して...

民主主義と教育 ⑧(第21章~第26章)

民主主義と教育 ⑧ 第21章~第26章 第二十一章 自然科と社会科:自然主義と人文主義 哲学における人間と自然の二元論は自然科学と人文科学への学科の分裂に投影され、後者を過去の文献的記録に過ぎないようなものにしてしまう傾向がある。近代における自然に関する知識を人間の福利に役立てようという試みであった近代科学の発展は、自然と人間の間の関連の回復を予告したが、近代科学の応用は人々一般の利益ではなく、一部の階級的な利益に利用され(つまり、人間の福利のために十分に利用されることはなく)、また、科学的学説の基盤的な役割を成した哲学的な理論的表現は、科学を純粋に物質的なものに関する知であるとし、精神的で非物質的なものとしての人間を区別し、そうでなければ、精神を主観的な幻想に過ぎないとするような傾向を生み出し、結果として、自然と人間(人文的なもの)の間の関連を回復するようなものとはならなかった。ここまで、知識の発達や教育的学科構成についてこれまでの諸章で述べてきたことは、自然と人間の分断を克服し、人間に関する事柄の中で自然科学の教材が占める位置を確認するための試みである。 第二十二章 個人と世界 真の個人主義という考えは、習慣や伝統の権威の支配のゆるみから生じたものであるが、社会の信念を修正し変化させる力の発達を意味したのではなく、各個人の心は他のあらゆるものから孤立して完全なものであるという主張として、哲学的な解釈を与えられたのである。そして、この哲学的な解釈は、社会と個人の関係ついての認識上の問題を生じた。それは、完全に孤立した個人的な意識が、社会の利益のために作用することがいかにして可能であるか、という問題であった。この問題に答えるために苦心して作り上げられた哲学は、教育においては直接に大きな影響を及ぼしはしなかったが、それらの基礎に横たわる仮定は教育においても、学習と管理、個性の自由と他者による統制の分裂としてあらわれた。自由ということについて、理解しておかねばならないことは、自由とは外的な制限からの解放を意味するのではなく、精神的な態度のことを示すのであるが、この精神的態度の発達は純粋に精神的な要因に依るのではなく、探検や実験、応用などの十分な行動の余地という外的な要素も不可欠であるということである。伝統的な習慣によって統制される社会で...

民主主義と教育 ⑦ 第15章~第20章

デューイ著 民主主義と教育 ⑦(第15章~第20章) ちょっとペースに焦りを感じたので、今日からは細かいことは気にせずにババっと一気に進めていきます。 第十五章 教育課程における遊びと仕事 生徒の学習の発展の最初の段階は、具体的で実際の社会活動に直接的にかかわる事柄をいかに成すかを学習することに含まれるものであることを前章で知った。このことの教育的な意味は、社会活動の一般的な典型とみなされる作業を教育において利用するということである。そうした典型を教育において利用することで作りだされる、社会活動と学習が重なり合うような環境でこそ、技術や知識の習得が行われるのである。 心理学的には、諸結果に対する配慮を意識的に含んだ活動を仕事といい、活動の延長線上の更なる活動の発展として目標を捉えるような活動を遊びという。言い換えれば、活動それ自体が目標となるような活動が遊びである。つまり、遊びとは活動の無益さを意味するのではなく、目的や結果を活動に対してどのように位置付けているかが問題になる。 社会が複雑化するにつれて、結果が活動から切り離され、重要視される傾向にあり、それとともに、活動は遊びから仕事に転化していく。しかし、文頭で述べたような活動と結びついた教育のように、遊びの態度を大いに含んだ仕事としての学習も重要である。 第十六章 地理および歴史の意義 経験は、その本性として、それ自体の中に最初に意識的に気づかれているものを遥かに超える意味をもっている。そのような関連、即ち大きな意味を意識させると、経験の意味が増すのである。最初どんなに些細に感じられた経験も意味の広がりや経験に気づくことを通して際限なく豊かな意味を持つことが出来るのだ。この発展こそが前章で述べた知識の発展段階の第二段階目であり、直接的な経験と結び付いた知識が情報によってその意味を拡大していく過程である。故に、この経験の発展をもたらすものこそ、他者との健全な通信(コミュニケーション)である。健全な通信には共通な関心が含まれるため、一方は熱心に伝えたがり、一方は熱心にそれを聞きたがるような関係における 通信である。この健全な通信は、相手が文字道理に再現可能となるようにきちんと記憶させるように情報を伝えるような通信とは対照的に異なるのである。 学校教育において、地...

Take a break 人生を2倍長くする方法

人生を2倍長くする方法 僕には大きな悩みがあります。それは、本を読むのがものすごく遅い、ということです。遅いけど、読書は好きで読み始めると終わるまでずっと読んでしまうので、気が付くと一日が終わっていて、人生ってもしかしてすごく短いんじゃないかな、なんて感じてます。 だから、僕自身の最近の目標というか、小さな夢は速読を出来るようになること、です。速読という行動の内実が曖昧であるというのであれば、斎藤孝さんの言葉を借りて「2割を読んで8割を掴む読書」です。今まさに、斎藤孝さんの言葉を引いたわけでありますが、速読が出来るようになりたいという、ささやかな夢に後押しされて、最近何冊か速読のメソッドについての本を読みました。今日までは、民主主義と教育の内容を少しづつまとめてきましたが、今日は本当に時間がないので、最近読んだ速読についての本ついて書こうと思います。 速さ= F(技術, 知識) 少しだけ速読について勉強をしてみて感心したことは、僕が読んだ本にはある程度相互に重複している部分があったということでした。しかも、その重複は速読の小手先の技術的な部分に対する部分ではなくて、技術を支えるもう一つの重要な要素についてでした。今、この文章のサブタイトルに「速さ=F(技術, 知識)」というひとつの関数(意味を成しているか不安ですが)を書きました。この式は速読のメカニズムを現した式で、読む速さは、技術と知識を変数として決定される、という意味です。これについて順を追って説明していきます。 速読における技術 まず、速読にとって技術が重要であるということは、一般的なイメージとして多くの人が共有しているのではないでしょうか。僕自身速読という行為に対するイメージは、理解することが出来る視野の範囲を広くするトレーニングや、目を早く動かすトレーニングなど、どういった特別な技術的な修練の結果として得られるものであり、そういった技術が最も重要なのであろうと考えていました。しかし、この観念は決して正しいものではありませんでした。もちろん、速読において技術は重要なことです。例えば、文字を脳内で音読するような方法で読むのではなく、ひたすら文字を流れるように追うような技術などは、速読をする上で最も重要な技術であり、速読を行う上で欠かせないものであることは事実です。ですが、それでも、そういった...

民主主義と教育 ⑥ (第11章~14章)

デューイ著 民主主義と教育 (第11章から14章) 第十一章 経験と思考 経験の本質 経験とは、能動的要素と受動的要素を含んでいる。言い換えれば、経験とはある状況における主体的な行動と、その行動が環境において引き起こした変化によって影響を受けることの両方を含んでいる。そして、価値ある経験とはその両者の結びつきへの認識を含む野である。これは、いかなる経験においても能動的な側面と受動的な側面の双方を含んではいるものの、その両者の関連を認識していなければ、価値ある経験とは呼べず、逆にその認識が大きければ大きいだけその経験は価値あるものであると呼ぶことが出来るということである。このように、精神的な認識と肉体的な行動は経験の中において関連しており、そのことで初めて価値を生むのであるが、その点を誤解した伝統的な精神と肉体の二元論に基づいて形作られてきた歴史上の教育はその両者の分離のために様々な良くない結果を生じてきたのである。 経験における熟慮 経験における能動的な側面と受動的な側面について、そしてその両者の関係について触れてきた。述べてきたように、両者の関係の認識自体も重要であるが、その両者の関係をどのように認識しているのか、ということも重要なことであり、それについてここからは述べていく。両者の関係をどのように認識していくのかという点においては、その関係の細部まで認識をすることが、熟慮的な経験であり、重要なことである。即ち、ただただランダムにある行動をある結果が偶然生じるまで続けるのではなく、行動と結果の関係を思考的・理知的な分析によって明確にする努力のことである。そうした後者のような熟考的な経験を前者のような経験と分ける特徴として、不完全な状況の試験的解釈、解釈した状況の諸要素の調査、その結果の試験的仮説の精密化、そしてある結果を得るため行動計画がある。熟慮的な経験においては、様々な知識を用いて能動的な行動を計画し行うわけであるが、知識はそうしたプロセスにおいて役目を担う限りにおいて価値を持ち、その有用性こそが知識の価値の尺度である。 第十二章 教育における思考 学校教育の目的を、よい思考の習慣を形成することであるとしたとき、その教育課程は統一的なものになるはずである。その重要性や学校の役割は理論上認められているところでもある。それにも関わらず、情報の...

民主主義と教育 ⑤ 第8章から⒑章

デューイ著 民主主義と教育 ⑤ (第八章から第十章) 第八章 教育の諸目的 この章では、目的という概念の本質的な意味を考察し、それを教育に適応する。 目的の本質 目的とは本質的には、現状の観察から導き出されるあらゆる可能的な結果のうちの、望ましい結果のことであり、そうした意味での目的は、その結果に至るまでの段階的な発展の過程を示唆する。この意味において、目的というものは、外部から与えられるものではなく、あくまでも現状の生命を取り巻く環境の観察に基づき、その生命の内部から生じるものである。また、外部から与えられる目的のように静的なものではなく、現状の変化に応じて目的から手段へと変化し、また新たな目的が生じるような動的なものなのである。即ち、目的とは目的であると同時に手段でもあるのだ。 教育における目的 目的の本質的な分析を教育との関連で語るのであれば、教育における本質的な目的も、外的に行動を規定するようなものではなく、教育を受ける個人の現状の分析に基づいた可能的で望ましい結果のことであり、そこに至る過程を示唆するようなものであるべ気である。その意味において、教育の目的は、「教育者の目的」ではなく、「教育を受ける個人の活動力」の望む目的である。教育の現状におけるマクロで一般的で抽象的な目的は、それ自体として活動の外的な目的されるべきではなく、被教育者個人の活動力や内的な目的との関連を考える指標として認識されるべきなのだ。また、そうした一般的で抽象的な目的は複数が同時に存在するが、それぞれが同一の社会に対する異なった見方を提供しているだけであるから、相互に競争的な見方をせず、並列的で協力的な見方をするのがよい。 第九章 目的としての自然発達と社会的に有為な能力 教育には、教育そのものの目的と呼べるような、即ちその下に教育の活動のすべてを従属させるような絶対的な目的は存在しない。一般的で抽象的な目的も、社会に対する異なった視点からの切り出し方にすぎず、そのため同時に複数が共存できる。抽象的な目的や一般的な目的はこれまでの教育の歴史の中で社会の変化に応じて様々なものが述べられてきたし、そうした目的に応じて教育的な慣行が構成されてきた。しかし、それはそれぞれの社会における強調の問題でしかなく、それらのいずれも絶対的な目的とはなり得ない。 第九章で...

民主主義と教育 ④ 第7章から

デューイ著 民主主義と教育 ④ 第七章から 第七章 教育に関する民主的な考え 社会様式と民主主義の教育 教育は社会の機能であり、それ故に教育の形態は社会の形態に依存する。即ち、ある社会の教育の形態の中には、その社会においての社会生活の様式の価値概念が包含されているのだ。この章では、民主主義という社会体制と結びつく教育の特徴を述べ、同時に、民主義社会以前の社会における教育哲学を紹介し、両者を比較する。 社会生活の様式の価値を判定する基準は、社会で広く共有されている関心が如何に多様であるか、そして、社会の内外における様々な集団間においていかに自由な相互作用があるかである。 望ましい社会とは、両者の基準が最大限に実現されている。そして、それは民主主義社会においても同様である。加えて民主主義社会は、集団や個人の間の相互作用によって社会の制度の柔軟な改変が可能とされている。故に民主主義社会では、広範な関心の共有やそうした関心の個性化を維持しつつ自由な相互作用を促進するような教育が求められることになる。 以下、先に述べた基準に基づいていくつかの歴史上の代表的な教育哲学を考察する。 プラトンの社会観と教育哲学 プラトンは、社会が天性の才能や資質に基づいた階級や序列をもととした秩序によって静的に維持されることが理想であると考えた。そして、教育はもちろんそうした静的な社会秩序を実現するべく整理されるべきとした。こうした社会観は教育によって社会を改変し向上させていくという動的な視点を持てなかった。 個人主義社会観と教育哲学 十八世紀においては、自由主義の思想が社会においてその中心をなしていた。即ち、個人の個性を多様性をそのままに、自然に任せて自由に発展させることこそが理想社会実現の手段と考えていた。この社会観の下では、自然に基づいた自由な教育が叫ばれることとなったが、言い換えれば、理想とする社会の像を描いておらず偶然の出来事を当てにする脆弱な教育観を生じた。 国家主義的社会観と教育哲学 国家主義的な社会観は、行き過ぎた自由主義に基づく社会観の批判の上に生じた。自由主義的な社会観が持ちえず、その結果自然法則によって代替した社会の理想像を国家の理想像によって置き換えたのである。即ち、国家の目標こそが社会の目標であり、国家以上の社会との摩擦を避けられず、社...

民主主義と教育 ③ (第5章~第6章)

民主主義と教育 ③ 第5章~第6章 今回から、少し要約の方法を変えていこうと思う。というのも、これまでの要約は若干冗長になりすぎたということと、誤解を恐れてすぎるあまり細部にこだわり結果として多くの時間を費やすことになってしまった。その反省から、今後は各章なるべく簡潔に、これまで以上に要所要所をまとめていく。 結果として、記事の信頼性や正確性が低下するやもしれませんが、ご了承お願いします。 第五章 準備、開発、形式陶冶 この章は、教育の過程とは連続的な成長の過程であり、成長や教育はそれ自体が目的であるというこれまでの章でデューイが繰り返し述べてきた考えを中心とし、その視点から教育に対する、著者の意見に対立3つの教育観を紹介し、批判する。その3つの教育観が、準備説、発達説、形式陶冶説である。 準備説 準備説とは、教育や成長とは社会の正式な成員となるための準備の過程であるという考え方である。これは、明らかにデューイの考えと反している。すなわち、教育や成長に執着を定め、教育の価値に限界を設けているのである。これに対して、デューイは準備説に基づく教育はいくつかの望ましくない結果を導くとしてこれを批判している。まず、教育があくまでも未来のみのためと考えられるために現在の子どもたちの生と乖離しているために、子どもたちは教育への原動力を失う。それどころか、そのような現在の子どもたちの生に関わりを持たない教育は、むしろ避けられ、躊躇されてしまう。そのため、結果として子どもたちの動機づけに、外的な報酬や懲罰などを用いざるを得なくなってしまう。また、社会の成員としての平均的な基準との比較のみが注目されるため、子どもたちの可能性や独自の能力が無視されてしまうのである。 開発説 もう一つの教育観は、開発説とよばれるものである。この教育観では、教育の過程を発達の課程というものの、発達を連続的な成長過程とは考えずに、潜在能力を一定の方向に向かって、開発していく過程と考える。デューイが前の章で述べているように、成長の方向づけを行うのは、成長している存在であり、成長とは生命の性向を環境との相互作用によって強化してく過程であった。つまり、そこに外的な目標は存在しない。しかし、この開発論は、成長の絶対的な目標を仮定し、その具体的顕れを子どもたちが目指すべき形として外的に規定す...

民主主義と教育 ② 第4章

デューイ著 民主主義と教育 ② (第4章) 第四章 成長としての教育 成長する力 子どもとは、しばしば未成熟という言葉のもとに語られることが多いが、未成熟とはどのような意味であろうか。一般的には、標準的なものであり成熟と呼ばれる状態に至っていない、消極的な方法で語られる。しかし、未成熟とは、「成長する力」即ち、可能力や潜在力のあらわれである。成長することが出来る状態こそが、未成熟ということの意味で或る。 依存性と可塑性 成長する力には2つの構成要素がある。一つは依存性、そしてもう一つが可塑性である。依存性というと、未成熟という言葉と同様に、消極的に語られることが多いわけだが、依存性というのは、同時に社会的素質のことでもある。いうなれば、依存性は、社会参加の素地を成している。その依存性によって社会に参加し、順応し、社会的な能力を身に付けて成長していくことができるのである。 もう一方の可塑性とは一般的に物質に言われるような可塑性とが異なっている。成長の要素としての可塑性は、自身の性向を維持しつつそれを発展させて環境に適応していく能力のことを言うのである。人間には、他の動物に較べて生得的に多くの本能的傾向が或る。言い換えれば、一定の本能的反射によって比較的単純な行動をするのに比べて、人間には多様な反応の可能性がある。よって人間は、そうした多様な性向を環境に適して組み合わせ、制御をする術を学ばねばならない。可塑性とは、情況の変化に応じて、性向の諸要素を変更したり、組み合わせたりして多様な反応を行う能力のことである。 習慣 人間は可塑性を利用し、習慣を獲得する。即ち、ある環境に適応し、習慣によって環境を変更し、自身の目的達成のための手段とするのだ。その意味で習慣とは、可塑性によって得られた、環境を変更する能力である。この過程には、二つの習慣が存在している。一つは、環境に変更を及ぼす習慣。もう一つは、慣れとしての習慣である。人間は環境のすべてを変更するのではない。そのため、一部の変更が行われるその下地となる習慣が存在する。それが、慣れとしての習慣である。広く一般的な環境に”慣れ”、その上で目的達成のために、環境を変更する、それが環境を変更する能力としての習慣の過程である。誤解をしてはならないのは、この習慣の過程には、知性を伴うことである。常に、目的がありその目...

民主主義と教育① (1章から3章)

要約 デューイ 民主主義と教育 第一章から第三章  第一章 生命(ライフ)に必要なものとしての教育 教育とは 生命は、不断に生命を維持しようと、活動を繰り返している。同様に、人間という生命体が集合した社会というものを一つの生命と考えた時、社会もまた生命一般と同様に、自己を存続するべく活動をしている。そして、その自己存続のための活動をして教育がある。社会は教育を通して、社会の習慣や価値観や文化を受け継いで存続させていくのである。 教育の過程 教育は、最も広い意味においてはコミュニケーションを通して行われる。(一般的に会話の中で使われるコミュニケーションの意味とは違い、人間の間の相互のやり取りをすべて含むような広い意味でのコミュニケーションというような意味で使われている)基本的な形での教育は社会への参加を通して行われていく。未成熟の存在は、成熟した社会へ参加をし、そこでのコミュニケーションを通じて、社会における人々の共通の目的や価値、習慣を自身のものとしていくのだ。 制度的な教育 以上に述べたもっとも基本的な形での教育は、社会への参加に付随的な形での教育であった。そうした教育に加えて、異なる教育の形が存在する。それが学校教育に代表される。制度化された形での教育である。社会が発展し、複雑化することに応じて、直接参加による付随的な教育によってのみ社会の文化や習慣、目的を存続させることが困難となった文明社会においてこの形の教育はその需要を増した。制度化された教育の中では、言語化された抽象的なことがらの教授が成される。両者は文明社会の存続において車輪の両輪というわけである。しかし、一方で両者の根本的な異質性は社会にとって脅威となりうる。制度的な教育は、言語を中心とし抽象的であるがゆえに、現実の社会生活と乖離が生じやすいのだ。そうした乖離は、文明の複雑化に伴って一層その深みを増している。 第二章 社会の機能としての教育 社会的環境 社会において教育が行われる際、価値化や習慣の教授は、物体を手渡すような直接的な方法で行われるのではなく、社会的環境を通して行われる。社会的環境によって教育がなされるというのは、他者の期待や賛否、態度が人間の態度の形成に影響力を持つということである。それは、動物が何かを学習するように快楽などによって導かれるのではなく、学習者が社会...