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12月, 2016の投稿を表示しています

速読多読 第七弾 社会学の根本概念

速読多読 第七弾 社会学の根本概念 ヴェーバー著 随分更新するのが遅くなってしまっていますが、12月26日に第七弾の速読をしたのですが、そこから何日間か忙しくて更新できませんでした! それはそれとして、12月26日分を書きます! 2016年12月26日 読了時間:30分 今日は外出の予定があったので、移動の電車の中で読んでいました。時間を本当に極力かけずに読んだので、本当に速読って感じでした。でも、その分本当にほとんど何も理解できなかったです。やはり速読は簡単ではないです。一応内容についても理解したことをまとめます。 内容について この本はタイトルからもわかるように、この本においてはヴェーバーが社会学における諸概念に対して説明を与える内容になっている。注目すべき点としては、ヴェーバーの社会学に対する理解や立場が明らかにされている点である。 ここで示されている社会学のあり方は、ヴェーバーの次の言葉に集約される。 ”社会的行 為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学” このような社会学に対する考え方は、意味社会学と呼ばれている。 つまり、事実それ自体というより、社会的な出来事へ与えられる解釈を重要視し、その解釈の関連の様式、法則性としての社会的法則を明らかにしようとする試みが社会学であるという考え方である。 この姿勢は、社会的な事実を重要視するデュルケムとは対照的な姿勢である。いうなればデュルケムは客観的な社会的事実があるという姿勢をとるが、ヴェーバーはそう言った客観的な事実というようなものの存在を積極的に評価するような姿勢はとらず、出来事に対して社会や個人が与える意味を重要視する姿勢をとっているということである。 総じて、ヴェーバーの社会学は解釈に注目し、それらの関連から現象の一般規則を求めるものである。

速読多読 第六弾 送り火

速読多読 第六弾 送り火 重松清著 2016年12月24日  読了時間 6時間 わかってます。6時間はもはや速読でもなんでもありません。普通に読んでました。 斎藤孝さんは速読は小説の方が楽だといっていました。なぜなら、主題のみに注目をしてそれにかかわる部分だけを切り取って読むことがしやすいからだそうです。 でも、いいわけがましいんですが、それって僕にはなかなか難しいことだなぁと気が付きました。主題に関係するもののみを読めばいいとはいえ、何が主題なのかを読む前に知っておくこともなかなか難しいですし、小説ってなんとなく描かれている出来事以上の抽象的な意味があると思うので、ストーリーとしての内容は速読でも拾えるのかもしれないですが、そういう抽象的な部分は時間をかけて呼んでいかないとわからないのではないか、と思うからです。と、いい訳をさせておいてください。笑 内容について 小説の内容はどうやって書くのが正解なのかわからないので、とりあえず口語体のまま紡いでいくことにします。今日2冊目の物語も重松清さんの作品でした。だから、今日はものがたりデーであると同時に重松清デーでもあったということですね。 送り火は、富士見線という私鉄沿線の街を場面にした、少しファンタジックな短編集の一冊になっています。そうしたいくつかのお話の中で共通して描かれているテーマは、「大切な存在との関係」かなと思いました。かなりざっくりしててすみません。僕がここで言う大切な存在というのは、「家族」であったり、「恋人」であったり、「友人」であったり、はたまた「過去の自分自身」であったり様々です。そうした大切なものとどう向き合っていくのか、それらが持つ意味とは何か。そうした問いを登場人物の日常の描写を通して読者に投げかけるようなそんな内容になっています。 自分自身も読んでいて、家族って何だろう、夫婦って何だろう、親子って何だろう、と様々考えさせられると同時に、そうした一見当たり前のように自分の人生を構成している基本的な関係も模範解答的なものはないんだな、自分で少しづつ定義していっていいんだな、と気づかされました。こんな風に考えることができるということ自体が、伝統からの束縛が弱まったことの表れなのでしょうか。少しズレてしまいましたね、すみません。 シメ方が分からないので、この物語の中で印象...

速読多読 第五弾 トワイライト

速読多読 第五弾 トワイライト 重松清著 2016年12月24日 読了時間 3時間 現在は12月25日の早朝ですが、これは12月24日に読んだ分の振り返りだということをご了承ください。笑 昨日は一日友人と楽しく外出していたので、本は読目なかったのですが、一日一冊から二冊を読もうという挑戦は続けています。笑 今日は、今日までの何日間かずっと読んでこなかった小説を読むことにしました。そして、選んだ小説が重松清さんが著されたトワイライトという作品でした。 重松清さんは、自分が小学生のころから読み続けている作家であり、今も積読している著書が何冊かあります。 内容について かつて抱いていた輝かしいはずの未来のほとんどは、現実になることなく朽ち果てていき、気が付けば誰もが平凡な人生の中を生きている。現実は時に残酷なものなのだ。登場人物たちも、そうした平凡な日常を生きる、未来に希望を抱くことができない人間のひとりだ。彼らは、小学生のころに埋めたタイムカプセルー希望ーを掘り起こすべく再会を果たす。その再会は、同時に未来がまだ希望だった頃の彼ら自身との再会でもあった。その残酷なめぐりあわせは、彼らの今をぐらつかせる。過去との対比の中で、彼らは哀れな今から目を背けることが出来なくなってしまうのだ。しかし、それでも彼らは生きていく。未来へと希望を託しながら。 だめだ…。小説の内容ってどうやって書くのが正解なのかがわからない…。 今の自分は、まだ20歳で。そんな自分にとって未来は、もちろん不安だらけではあるけれど、まだ”希望”なのかなと思う。 ただ、そんな若い自分でも、小学生のころに抱いていたような楽観的な将来観を持つことはできないし、小さいころ自分が自分自身に抱いていた可能性の感覚はあまりにも非現実的で、というよりもまぶしすぎて直視することを避けてしまいたくなる。 きっと過去に抱いていた未来への希望を直視しようとする時に感じるこの後ろめたさに似た感覚は、年を重ねるごとに大きくなるのだと思う。そして、それはきっと抱いていた希望や夢の未来と現実の間に空いてしまった無慈悲な距離の大きさに比例しているんだと思う。 もしかしたら、自分も将来いろんな形で、この物語の登場人物のように夢の将来と現実の開きに気づかされて、未来に大きな希望を抱くことができなくなる時が訪れる...

速読多読 第四弾 テロリズム

速読多読 第四弾 テロリズム チャールズ・タウンゼンド 宮坂直史訳 2016年12月22日 読了時間 1時間 今日まではデュルケムやヴェーバーなどの古典を読むことが多かったが、今日は古典から少し離れた教科書的な本を読んでみました。ほんとにバババーッて読んだので、正直まとめてかけるほど内容をきちんと理解していないと思うのですが、うまくいったことばかり書くのはずるい気がするので、あまりきちんと読めなかった今日も記録をしていこうと思います。 内容 この本は、Oxford University Pressから出ているA Very Short Introduction Seriesの日本語訳である。そのため、テーマについて著者が持論を述べるというよりは、テーマについて一般的な事柄を簡潔に且つ包括的に述べていくというような構成の本になっている。題にあるように、この本のテーマはテロリズムである。よってこの本はテロリズムについての一般論をいくつかの項目に分けて述べている。 構成としては、まずテロリズムを定義する試みから始まる。そして、テロリズムの起源やこれまでの歴史の中でのテロリズムを具体的な事例とともに紹介し、その特徴や意味、そしてその変化について述べる。そして最後に現在最も注目を集める国際テロや宗教テロリズムと、こうしたテロに対する民主的な対策について述べている。 テロとはラベリングであり、ある社会で悪であるとみなされているものが、別の社会では自由のための闘争と見られているようなケースもあり、必ずしも絶対的な悪であるとも言えない場合もある、という考え方はアメリカとの結びつきが強い日本に住む日本人にとっては、あまり考えることのない視点かもしれないが、重要な視点であると感じた。 また、これまでの歴史上では、政治的な意味の革命的なテロがある社会の内部において起こるような傾向があったが、そうした政治的なテロから、思想的な宗教的なものへと質的な変容が起こり、その結果テロの範囲も一つの国家や社会の内部から、国際テロへと変容をとげていることなど、現代社会を生きるものにとっては知っておくべき事実であろう。 今後、テロリズムがどのように変容していくのか、継続的な注意を払って行きたい。

速読多読 第三弾 職業としての学問

速読多読 第三弾 職業としての学問 ヴェーバー 2016年12月21日 読了時間 45分 非常に短い本であったにもかかわらず、かなり長い時間をかけてしまいました。しかし、短いなりに多くの内容を含む本であったので、とても実りのある45分になりました。ヴェーバーという人の賢さがうかがえます。 内容 この本の内容は、第一次世界大戦が間もなく終わりを迎えようとする時代、敗戦が濃厚となったドイツにおいて行われた講演において語られたことをまとめている。 この講演においてヴェーバーは学問探求の姿勢について次のことを述べている。 まず、専門化について。 ヴェーバーによれば、学問は高度に専門化が進んでおり、そうした中で学問を職業とするものは専門外のことに対してわき目を振ることなく、自分の問題意識に没頭すべきであるとする。学問を職業するものとして個性を発揮するためには、個々人の持つ個性によってではなく、自分が取り組むべき仕事に仕えることによってである。 また、主知主義的合理化という概念もこの講演において重要なポイントである。 主知主義的合理化というのは、いわば世界の脱呪術化である。これは、世界は知性によって予測し、理解することが可能であり、神聖なものや神秘的なモノの力に頼らねば説明ができないようなことは存在しないという姿勢である。 最後に、価値自由という考え方もヴェーバーはこの講演において触れている。 学問の意味として、前提とされていることがある。それは、学問によって世界がどうあるべきか、という姿が明らかになるという考えであり、学問は普遍的な心理に辿り着くための道である、というような考え方である。しかし、ヴェーバーによれば、それらの学問が普遍的な価値あるものへと至る道程であるというような考えを否定し、学問の先にあるものは、「そうあるべきという状態」を示すような価値である、という考えを学問探求者は持つべきではないとする。それは、価値というものは常に相対的であるため、学問の妥当性を示す根拠にそうした価値判断が含まれないようにするためである。 価値自由とは、上記のように、事実(あるもの)と価値(あるべきもの)を区別すべきであるという考え方である。 ヴェーバーのように考えたとき(学問が一般的に前提としている知の普遍的な価値を認めない時)、学問の価値はどこにある...

速読多読 第二弾 社会学的方法の基準

速読多読 第二弾 社会学的方法の基準 デュルケム 2016年12月20日 読了時間 4時間 今日はデュルケム著、社会学的方法の基準を読みました。250ページ程度の本で長くはないので、4時間は時間をかけすぎで、もはや速読といえるのか、という感じです。ですがめげずに毎日挑戦していこうと思います。 内容について 社会学的方法の基準は、デュルケムが社会的諸事実の研究に適用する方法の特色を明らかにし、またそれを規定するとの目的のもと著されたものである。著書においてデュルケムは社会的事実とは何か、社会的事実をどのように扱うべきであるか、社会学における説明とはどのような様式で行われるべきであるかなどについて触れている。 まず、社会的事実というものは、社会がもつ傾向性や特徴であり、社会学が研究対象とするものである。(社会の持つそうした特徴は個人にとっては外的で、個人の行動に圧力を加える。)これは、社会の中の個々が持つ特徴や傾向性から独立したもので、言い換えれば、社会は個々の人間の結合によって成立しているが、社会はその結合の結果個々人から独立した社会に特有の性質を持つということである。そのため、社会学的な説明は個々人の傾向性を説明することとは異なり、よって社会学的説明は心理学的説明とは異なる。つまり、心理学と社会学は不連続の学問領域なのだ。両者の関係は、人間を構成している物質についての無機化学的な説明としての化学と有機体としての人間を説明する心理学との関係に似ている。 そして、デュルケムは、そうした社会的事実をものを扱うように扱うことが重要であるという。社会学はこれまで、観念から出発し、観念に関する内省的な研究(哲学的な研究、哲学の一部としての社会学の研究)が成される傾向にあった。それに対してデュルケムは、社会的事実を(観察する主体にとって)外在的なものとして捉え、内省に依るのではなく観察によって科学的に研究していくことが重要であると述べたのである。 この一冊は、デュルケムによる、哲学と心理学からの社会学の独立宣言であるように思えた。

速読多読 第一弾 精神分析入門(上)

速読多読 第一弾 フロイト著 精神分析入門(上) 2016年12月19日 読了時間 3時間 まだまだ速読とはいえないくらい時間がかかる上に、内容もほとんどわかっていない現状があるんですが、読んだことは読んだので自分が読んで理解をしたことのみを書きます。 フロイト言えば、精神分析の創始者として有名で、心理学を学ぶ上では必ず勉強しますし、心理学だけでなく哲学やそのほかにも幅広い学問分野に影響を与えています。 そのフロイトが精神分析について、概論的な講義を行った内容をまとめたものがこの著書になります。なので、言葉遣いとしては講義の内容を文字に起こしたようなものなので語りかけるような語調になっていて非常にわかりやすいです。 僕が読んだのはそのすべてではなくて、上巻の錯誤行為と夢についての二編のみです。 その内容を簡単にまとめると、言い間違えや聞き間違えなどの錯誤行為も夢も無意味なものではなく、無意識の領域にある自己が形を変えて表現されている、意味を持ったものであるというこである。 まず、錯誤行為は無意識で思っていることが錯誤行為という形をとって表現されてしまう。また、夢においては錯誤行為よりもすこしだけ複雑であり、無意識に感じていることが直接的に表現されるわけではない。夢は、無意識が抱える願望が倫理的な基準や社会的な規範などに基づいて受け入れ可能な形に変更を加えられた後に夢として現れているのだ。 ここにはフロイトの精神分析理論として知られる、イド(無意識)、自我、超自我の関係を読み取ることができる。 特に、フロイトらしい点としては、無意識の表象が夢として表現される背景にある力として、リビドーをかなり重要視している点である。 書いてみたのはいいですが、書いてみると早く読むと理解がものすごく浅いことが明らかになりますね!笑 それからもこんな感じの短い投稿が続きますがご容赦ください。

冬休みの挑戦、速読多読!

冬休みの挑戦!!!速読多読!!!  2016年12月19日 先日大学の学期が終了し、自動的に冬休みが始まりました。 この冬休みは留学から帰ってきたばかりということもあり、地元も大学に通う友人とは予定があまり合わず、時間を持て余していて感じがあります。 そこで、何か目標をもって一日一日を過ごそうと思い、決めたことが積読書(これまでかったものの積読をしてしまっている本たち)をなるべく読み切るということでした。 本当に100冊くらいの積読書があるのですべてを読みきることはないとは思うのですが、なるべくたくさんの読了に挑戦していきたいと思います。 ただ、普通に読んでもめっちゃ時間がかかるだけなので、留学中から挑戦している速読の練習にもあてようかと思います。速読はメソッドがわかっても実践を通して鍛えなければ習得ができないものだということに気づかされる毎日なので、この機会にがっつり挑戦しようと思います。 ということで、ここまでの内容をまとめると ”この冬休みは速読でなるべくたくさんの本を読み切るぞ!!” ということになります。 そして、速読をした著書に関してはそのレビューというか感想を遂次まとめてここに上げていこうと思います。 冊数的には一日2冊くらい読めればいいなと思います。 がんばろう!!!

”価値のあるもの”について

最近、いろいろな映画を近しい友人と見る機会が多い。 そのうちの一つとして、自分自身がものすごくひきつけられ、ものすごく傾倒している作品がエヴァンゲリオンだ。 この作品は、アニメーションが原作で、それに付随する形で漫画やゲームなど様々な媒体で描かれており、興味深いのはそのそれぞれで内容が微妙に、ゲームなどに至っては全くもって異なっているということだ。 現在も、前四部作の映画作品のうちの第三作品目までが劇場公開をされている。 四作目が非常に楽しみなのと同時に、個人的にはオリジナルの中のオリジナルである、テレビアニメーションシリーズを鑑賞していないので、時間を見つけてそちらを楽しみたいところではある。 エヴァンゲリオンは、媒体としての多様性とそれぞれの内容の非統一性を一度忘れて、その作品としての基本的な設定のみを考えても非常に複雑でわかりにくい。 個人的には、なんとなく細かく見ていくと矛盾に思えるような点や、腑に落ちない点はたくさん見つかるのではないかと思っている。 ここまで、ものすごく没頭している割には、作品についてポジティブな情報がほとんどない。それでも、なぜだろう、やっぱりどこかとても惹きつけられてしまう。 なんとも不思議な作品だ。 ただ、この不思議は別にエヴァンゲリオンに限ったことじゃない。 これまでいろいろな作品を友人と見てきたわけだが、作品を細かく見ていくと納得できないような部分や、矛盾点はしばしば見つかるし、時には陳腐な内容というか、特別その作品に限って取り立てて驚くべき点が見つからないこともある。 しかし、それでもなんとなく、この作品にはやっぱり価値があるんじゃないか、と感じさせる魔力のようなものがある。(ような気がする) なぜなんだろうか。 少し前に、構築主義という言葉を、社会学の勉強をしている時に勉強した。 この言葉の意味は、社会問題などは、”問題にされる”ことを通して初めて”問題”となる、という立場である。この立場に立って社会問題を考えるとき、その社会問題都やばれるそのことがらそれ自体に問題とされる要素が本質的に存在しているとは考えず、その問題が問題と定義される背景にはどのような力が働いているのか、言い換えれば、どのような社会的状況がその問題を問題にしているのか、に注目することになる。 自分はこの構築...

ひとりごと

ひとりごと これから先のことを思うと、不安になる。 今まで、わかっていたつもりでいたことがここ数日、気味の悪い現実味をもって訪れる。 人生の終わり、死んでしまうということ。 生きているものはいつかみんな死んでしまうし、そんなことは誰だって知っている。 きっと小学生にだって、幼稚園児だって、アリやガやゴキブリが動かなくなるのを見る時には、それを理解していると思う。 だから、自分もそんな当たり前のことはわかってた。と、思ってた。 でも、たぶんわかってなかったし、今もきっとわかってない。 とにかく、今は終わりが怖い。 気が付けばその瞬間を迎えているんじゃないか。 ずっと先の出来事のように思っていたけど、実はすぐにその瞬間を迎えてしまうんじゃないか。 それがすごく怖い。 それから、人生は一度きり。 それも当たり前。 きっとそれもみんな知ってる。 でも、その当たり前のことが自分をもっともっと不安にする。 帰ってこない昨日、容赦なくやってくる明日。 ただただどうすればいいのかわからない今日。 やらなきゃいけないことを、きっとそつなくこなしていれば、きっと不自由なく、あたりさわりのない人生が待っている。 あたりさわりのない人生。 それは、自分がいない人生のことだ。 いつまでも自分で選ばない人生。 ただただ流れるままに流れていく人生。 やらなきゃならない、と誰かが言っていることをとりあえずやる。 受験、進学、就職、労働。 とりあえず、みんなそうするからそうする。 そのままずっと流されて、気が付いたら終わりまで流されている。 もしも終わりの瞬間に、自分のこれまでって何だったんだろうか、と尋ねられたら。 わからない、ただ、流れていただけな気がするから。 そんな風に答えてしまいそうな人生。 少なくとも、今自分が終わりを迎えて、誰かに同じように尋ねられたら、そう答える。 どうしようもなく、情けない人生。 そんな人生は嫌だと心はそう叫んでいる気がする。 中学生のころ、高校生の頃、大学生になりたてのころ。 心はもっと強かった。そんな人生は嫌だと叫ぶ声は、体中に鳴り響いていた。 少なくとも、自分が流されているだけ...