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世界像と歴史

今週はずっと、 歴史観 について考えていた。 それはただ、授業の宿題で マルクス の「 ドイツ・イデオロギー 」を読まなければいけなかったからだけど、さすがに古典というだけあって考えることはとても勉強になった。 マルクス の 歴史観 は一般的に「 唯物史観 」なんて言われたりする。経済学批判の中にはそれが比較的わかりやすく説明されていて、本当に誤解を与えてしまうことを恐れずに言えば、「経済機構などの社会の下部構造が上部構造を規定しながら、社会の変化を説明する」というような 歴史観 のことだ。 大学1年生の頃に マルクス のことを少し勉強していた時期があって、この「 唯物史観 」が何の事なのか理解に苦しんだのを覚えている。わかってしまえば、何だそんなことか、という内容のことなのだけれど、自分にはそれがどうして「唯物」なんて言われているのかそれがよくわからなかったからだ。 でも、 ドイツ・イデオロギー を読んでみて、自分にとってはようやくその理由が納得できた。哲学の世界で「 唯物論 」と対比されるのは、たぶん「観念論」という考え方だ。あまり詳しくないので、不用意に単 純化 はしたくないけれど、 唯物論 は物質を基本に世界を考えていて、観念論は「精神」とか「理性」を基礎にして世界を捉えていると思う。 マルクス の時代の哲学の主流は観念論の哲学だった。 マルクス も若いころは ヘーゲル の哲学に没頭して観念論の世界でものを考えていたんだと思う。でも、次第に観念論では自分たちが生きている現実を説明しきることはできないと考えるようになっていった。現実を説明するにはやはり、現実に立脚した基礎からものを語る必要があると考えるようになったんだろう。そうして、 マルクス は「 史的唯物論 」に行きつく。 マルクス の 歴史観 というのは、その根底に「生きる人間」を置く。自然の中で、自然に条件づけられながら生活の手段を「生産する」人間。(当時の人間=理性的な存在という見方と鮮やかに対立する。)物質的な世界の物質的な行為から歴史を考えようとしたからだと思う。そして、個々の人間の生産活動から始まった人の歴史は、人口が増加して生産のあり方がどんどん変化して、多くの人が巻き込まれるようになって、複雑化して、次第に経済機構が形作られ、その上に政治体制や宗教などの上部構造が生じ...

R.マートン 社会理論と社会構造 第5章 社会構造とアノミー(続き)

第 5 章 社会構造とアノミー(続き) 第一節 アノミーの拡大概念 デュルケムが提示したアノミーという概念は社会における相対的な無規制状態を意味していたが、アノミーという言葉が通俗化されるにつれ、その意味も拡大されるようになる。 まず、社会の状態を指す社会学的な言葉であったアノミーが心理学的な言葉として用いられるようになった。心理学的概念としてのアノミーは社会状態ではなく、特定の心的状態を指す言葉として用いられる。ただ、こうした心理学的なアノミーは社会学的なアノミーの概念とは別の側面をなるものであり、社会学的な概念を代用することはできない。 前章で展開したアノミーの概念は以下を前提とする。「個人の主だった環境は、一方に文化構造(“特定の社会ないし集団の成員に共通な行動を支配する規範的価値の組織体-前章での文化的目標と規範を含む)があり、他方に社会構造(社会または集団の成員が様々な仕方で関わり合う社会関係の組織体―階級の構造などを含む)がある。」そして、アノミーへの傾向は文化構造と社会構造がうまく統合されないで、文化構造が要求する行為や態度(文化的目標)を社会構造(階級構造など)が阻んでいるときに生じる。 前章ではアノミーを引き起こす過程の例をあげ、そうした状況に対する対応の様式に言及した。そのうえで、階級構造とそれらの適応様式の間にある関係についても触れた。そしてこの前提にあるのは、階級構造がアノミーの状態へ陥る程度を異にするだけではなく、アノミーへの反応の仕方を異にしているということである。更にパーソンズたちは逸脱行動そのものも、型式化されている、と主張する。逸脱的行動の諸類型の分類はごく最近に発達したもの(当時)であり、経験的実験において広く活用されなければならない。 第二節 アノミーの標識 アノミー概念を経験的調査に利用するにはアノミーの観察可能な標識を整理する必要があり、その取り組みはいくつかの社会学者によって取り組まれてきた。主観的に経験されたアノミーの標識を個人の知覚や経験に基づいて整理したり、客観的状態としてのアノミーを統計的な情報に基づいて整理をしたりと、試みはいくつかあるものの、まだまだ改善の余地が大きい。 第三節 アメリカ文化における成功のテーマ アノミー的な状況というのはその目標の内容に関...

R. マートン 社会理論と社会構造 第4章 社会構造とアノミー

第 4 章 社会構造とアノミー まず、この論文の主要な目的はこれまで社会的逸脱に対して学術界から支持されてきた「フロイト的前提」(社会の構造は、本来、人間の固定した生得的な衝動の自由な表現を抑制するもので、そのため、人間は自由を得ようとして周期的にこの抑制に大っぴらな反抗を試みる、という前提―構造によって押さえつけられた人間の生得的な欲求の欲求不満が引き起こす、構造に対する反抗が「逸脱的行動」であるという心理学に基づく前提)に立つ心理学的な説明を批判し、それとともに社会的逸脱に対して社会文化的構造に着目した原因分析を行うことにある。(心理学的説明に基づくと、逸脱は社会構造に関係なく社会に一様に、且つ、特定の集団などに偏在することなく存在することになる。) (余談であるが、社会的逸脱を客観的な存在と考える基礎づけ主義的な存在論と、それに対して量的なデータを用いて原因分析を行おうという姿勢は典型的な実証主義的認識論に立脚している。 1930 年代に書かれた論文であることを考えるとそれは当然であるが、読了に当たってはそうした認識論を視野に入れつつ読み進めることが、効果的な批判や建設的な議論を行うにあたっては重要なステップであるといえる。) 第一節 文化的目標の型式と制度的規範 まず、社会的逸脱やアノミーを考えるに当たって二つの社会文化的構造の諸要素の中でも 2 つがより重要である。一つは文化的に価値を置かれている「目標」であり、もう一つはそうした目標を達成するにあたって用いられる手段に対する文化的・制度的な「規範」である。後者はどのような手段が社会的文化的に正当であるか、と規定する規範である。また、正当な手段はその効率性などからは独立している。(たとえ効率性が高いからと言って特定のな手段―暴力的手段など―が常に正当化されている、と言うことはない。) そして、この二つの要素の間には常にバランスがとられているということはなく、それぞれがそれぞれのダイナミックスをもっている。それ故にある社会では「目標」のみがアンバランスに強調され、一方で「規範」がなおざりにされてしまっている。逆もまた然りである。 「目標」ばかりがアンバランスに強調され、「規範」が影を潜めているような社会では、人々は目標を達成するためには手段を選ばなくなりそのため、効率性を重...

ゼロ・グラビティと先駆的決意性

時間があったので、「ゼロ・グラビティ」という映画を見ました。 英語を聴こうと思って観たものの殆ど会話はなく(…なぜ、トレイラ―を見た時点それに気づかなかったんだろうか…)、目的は果たせなかった感は否めませんが作品自体は楽しめました。僕は、その物語の構成の素晴らしさとか、画の構図の善し悪しを語ることができるほど、映画のことをよく知らないのでそういった観点からコメントをすることはできません。なので、これから僕がここに書くのは映画に対する評価ではなく、単なる僕の感想です。 この「ゼロ・グラビティ」という映画のあらすじを簡単に説明します。冒頭、宇宙開発のミッションに参加していたある女性の学者たち一行が宇宙での作業中に、爆破処理された人工衛星の破片の嵐に巻き込まれるところからこの映画は始まります。鉄くずの嵐によって彼女たちの宇宙船は破壊され宇宙に取り残されてしまう主人公。彼女は宇宙の過酷な状況の中、限られた資源を駆使しながら地球への帰還を試みます。そして、その旅の中で、生きることに消極的だった主人公が積極的に生きることを決意する。この映画はそう言う物語です。 映画を鑑賞し終えて、僕の頭に浮かんでいた言葉がありました。それは「先駆的決意性」という最近学んだ言葉です。この言葉はハイデガーというドイツの哲学者が作りだした言葉の一つであり、ハイデガー曰く人間がその存在の本来性を取り戻すために必要なことです。ハイデガーは「存在一般の意味への問い」を追求した哲学者として知られており、彼は気が付いたときにはすでに現に存在している「現存在」としての人間の分析を通して、その問いを探求しました。現存在としての人間の一般的なあり方を考えると、人間はとりあえず日常の生活に没頭しており、その行動は常に道具を用いた行為の形をとります。そしてそうした道具をハイデガーは道具存在と呼びます。そして、そうした道具存在はそれだけで存在しているのではなく、常に目的と結びついています。例えば、ノコギリは木材を切るために、木材は柱を建てるために、柱は屋根を乗せるために…などと言ったように結びついているわけです。こうした目的-手段のネットワークを道具連関または目的手段連関と呼びます。そして、ハイデガー曰く、道具連関は私たち現存在が生活する世界そのものであり、現存在はその究極の目的(家を建てるのも、料理...

構造主義についてのメモ

今回は、「構造主義」について最近学んだことをまとめようと思います。 「構造主義」という言葉を、インターネットで検索すると、以下のようなウィキペディアの解説が真っ先に一番上に表示される。 ” 構造主義 (こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場して発展していった20世紀の現代思想のひとつである。 広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する 構造 を抽出し、その 構造 によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。” 「現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解する」という表現は一見わかりやすいかとも思うけれど、それが具体的にどういう意味なのか、これだけではわかりにくい。なので、ここでは構造主義に関して僕が理解していることを記していこうと思う。ただ、僕の理解も哲学史の概説書をさらっと読んだ程度のものなので、きちんと理解することができているのか、その点に関しては不安である。なので、タイトルもあくまで「メモ」としたし、間違いがあれば教えていただきたい。 まず、どのようにして構造主義が生まれたのか、ということについて触れてみる。構造主義という思想の成立の背景には、現象学という現代思想がある。僕は、何かの概説書で初めにそれを読んだとき、「構造主義は現象学の発展形態だ」というように理解(誤解)をしてしまったのだが、現象学がどうしたら構造主義と繋がるのかその部分が全く理解できず頭を抱えてしまった。しかし、この「構造主義が現象学の発展形態だ」という僕の理解は全くの見当違いであり大きな誤解だった。両者の正しい関係は「構造主義は現象学への批判の中から生まれた」というものである。ただ、この点を理解するためには現象学について少し知らなければいけない。なので、少し本筋からは外れてしまうが、現象学に寄り道をしてみようと思う。 現象学は「実在とは何か」という問いへの説明を試みる哲学の一分野であり、この分野における代表的な哲学者には、フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティなどが含まれる。彼らは異なった視点から「実在とは何か」についての答えを模索するが、現象学は一貫してその説明の中心に個々人の意識や主体を置いていた(フッサールの志向的相関関係、サルトルの...

主観/客観図式 デカルト

何度も読んだことがある解説書を読んでいるはずなのに、「理解したぞッ!」という感覚は唐突に訪れるものなんだなぁ、とふと思いました。 デカルトの「方法的懐疑」というものが一般的な懐疑と何が違うのか、とか。 デカルトの「主観/客観図式」が何を意味しているのか、とか。 前者の二つの懐疑の違いは、ヘレニズムの懐疑主義とデカルトを比較してみるとはっきりわかります。ヘレニズムの懐疑はアタラクシア-魂の平静-に至るためには、確実だといえることなんてほとんどない現実の問題に頭を悩ませるよりも、そうした事柄に対してエポケー-判断停止-をすることが大切だ、というように考える懐疑でした。一方で、デカルトは「疑いようのないもの」とは何だろうか、それを探すためにすべてを疑いました。つまり、この懐疑はあくまでも「疑いようのないもの」を見つけるための方法/手段なのです。だから、デカルトの懐疑は「方法的懐疑」と呼ばれているんです。 後者の「主観/客観図式」というのは、世界をどのように見るか、その見方の一つです。細かいことは省略しますが、デカルトは方法的懐疑の末、「考えるわたし」だけは疑いようのないものである、と結論を出しました。そして、「神の誠実」を前提にしながら、その疑いようのない考えるわたしにとって、明らかなもの-明証的なもの-はすべて確かに存在している、というように考えるようになります。ここに、一つの世界観の転換があります。デカルトは、懐疑以前において世界が自分よりも先に存在をしていて、そこに自分があとから存在するようになった、と考えていたはずです。つまり、世界の存在が自分の存在の根底に前提として存在しているわけです。ですが、懐疑を経てその関係は逆転します。世界は、自分の以前に存在するものではなく、私が認識し思考することを通じて初めて存在するようになったのです。私が認識する限りにおいてはじめて世界は確かに存在する、ということです。「考えるわたし」が中心となって世界が広がっているのです。 そして、デカルトはこの「考えるわたし」を「前に置かれたもの」「根底に置かれたもの」を意味する「主観」と呼ぶようになりました。この時同様に、認識や思考の対象である世界は「後に置かれたもの」を意味する「客観」と呼ばれるようになったのです。このような世界の見方が「主観/客観図式」という...

ルネサンス、宗教革命と思想

ルネサンスと宗教革命は近代の二つの柱である「民主主義」と「自由主義」の二つを準備した。特に、ルネサンスは「民主主義」を宗教革命は「自由主義」を用意することになった。 ルネサンスとは、端的に述べれば14世紀から16世紀にかけて起きた古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動である。古代ギリシャ・ローマの文化の復興運動は十字軍以降神聖ローマ帝国他イタリア半島の諸国とビザンツ帝国の間の交流が盛んになるにつれて、ビザンツに蓄積されていた古代ギリシャ文化がイタリア方面に流入したことを通して始まった。 ルネサンスの時代、思想史の観点から重要な変化は「人文主義」の起こりであった。中世における「知」が「教会に関するもの」であり、いわばキリスト教に規定されたものであったのに対し、人文主義は「人間的事象、自然的事象を合理的な手法で探求する文芸」であった。すなわち、人文主義においては「人間に関するもの」が「知」の中心になったのである。更に、合理的な手法によって、とあるように合理主義的な立場をとる。即ち、人間の理性の重要性がここにおいて再認識されることになったのである。 次に宗教改革であるが、これは一般的に定義すれば教会中心的な権威的なキリスト教のあり方を、個々の信仰や個々の人間と神とのミクロな関係を重視する内面重視なあり方に転換しようという試みである。いわば、イエスの原始キリスト教への回帰の運動である。これまで、教会に独占されていた神との関係は、宗教改革を経て個々の人間の元に帰り、それは結果的に「内面的な自立と主体性」を人々の間に確立することにつながった。そして、それは自由主義の土台を成す概念であった。

中世の思想-封建制とキリスト教

中世において、政治は封建制によって治められていた。封建制においてはぞれぞれの封臣同士は、たとえ主君と従臣の関係であっても封臣としては対等な主体であった。言い換えれば。彼らは対等な封臣同士の双務契約として他の封臣に仕えたり、ほかの封臣を使ったりするのであった。このように自立性を持った封臣たちは名誉感情を重要視していた。即ち、他者からの評価を気にする他者志向性と、利益や状況に左右されることなくプライド・自尊心などの自分自身を堅持するという精神的独立性がこの時代の封臣たちの特徴であった。そしてこうした姿勢は倫理や正義などの価値を重視し、同時に権力的な関係性(権力)に依る支配を越えた客観的なモノ(法など)に依る支配の重視する、という政治的な自由の萌芽であったといえる。 この時代に、封建制に加えて思想史の観点から重要性を持っているのはやはりキリスト教である。中世の社会において知というものは宗教的なもののことを主にさしており、多くの大学などの教育機関も教会に関することを学ぶ場として機能していた。キリスト教の中でもその思想や考え方は決して一枚岩ではなく、内部には諸派が存在していた。このようにキリスト教の内部でも派閥によって様々な論者がいたわけだが、ここではアウグスティヌス、トマス=アクゥイナス、オッカムの代表的な三名の思想に触れる。 アウグスティヌスは自由な意思の発見者と呼ばれる。アウグスティヌスは考えた、神による世界の想像はどのようにして行われたのか。何もないところから、世界はどのようにして生まれたのか。そして、すべての始まりには神の「自由な意志」があったに違いない、と結論づけた。すべては「意志」することから始まった、と。言い換えれば、世界は神が自由な意思に基づいて世界の想像を決意したことによって始まった、ということである。彼は、この意志こそがすべての始まりである、という考えを信仰にも適用した。具体的には、人間が正しく生きるためには神に頼りながら、人が意志することが必要であると考えたのだった。このように「自由な意思」を全ての基礎として重視する考えから、アウグスティヌスは「自由な意志の発見者」と呼ばれる。 トマス=アクゥイナスは神学とアリストテレスの哲学を融合させた。端的に言えば、彼は物事の普遍的な本質は個物の中に内在している、と考えた。例えば、神が作ったこの世...

古代ローマの時代の政治と思想

古代ローマの時代。この時代の哲学や思想は、古代ギリシャの模倣の域を出ることはなかった。ギリシャの人間や社会に関する哲学は民主制の存在と大きく関係をしていたというが、ローマにも民主制はあった。ではなぜ、ローマはギリシャの模倣の域を出ることができなかったのだろうか。考えられる理由として、ギリシャの民主制とローマの民主制の間にある質的な相違がある。 ギリシャの民主制は、奴隷の存在という深い闇に支えられて成立していたものの、貴族であろうと平民であろうと、個々市民は比較的対等な政治的権利を行使することができていた。一方で、ローマの民主制は建前のようなものであり、貴族と平民の間の政治的な地位の格差は大きく、貴族が政治の実験を持つ事実上の寡頭制によって政治が運営されていた。もちろん、ギリシャでそうであったように平民の戦争への参加とともにローマでも平民の政治的権力が高まったが、それでも本質的には貴族が政治を支配する寡頭制政治であった。そして、古代ローマでは次第に特定の貴族へ権力が集中していき、結局帝国化してしまった。 当然、古代ローマの民主制の特徴が古代ローマで哲学や思想が発達しなかった理由のすべてであるとするのは理に適ったことではない。しかし、そのような寡頭制の社会においては、ギリシャ社会に較べて市民が思索などに対して消極的であったという可能性はそれほど卑非現実的な仮説ではない。 古代ローマの時代、思想史の観点から重要な意味を持つ変化は、原始キリスト教の成立である。キリスト教が生まれたパレスチナ地方は紀元前1世紀頃にローマの支配下に入った。当時のパレスチナ地方には多くのユダヤ人たちが暮らしており、彼らはユダヤ教を信仰していた。その時代のユダヤ教は宗教的な儀礼を重要視する形式主義的な宗教であったが、貧しい人々にとっては宗教的儀礼に則って生きることは決して容易なことではなかった。それ故に宗教的儀礼に則った生活を営むことができない貧しい人々に対してユダヤ教徒たちは迫害を加えていた。このような時代背景の下でキリスト教は生まれることになった。 形式主義的なユダヤ教に対して不満を持った一人の人間がいた。そのイエスと言う男は、ユダヤ教の形式主義を批判し、本当に重要なのは信仰心であるという内面重視の宗教を提示した。具体的には、イエスは律法や儀式よりも良心を、法、正義や権利よ...

古代ギリシャの哲学-ヘレニズム

古代ギリシャの哲学を語るときに、重要なことは人間や社会へと関心が向けられるようになったということだけではない。もう一つ、重要な特徴があった。それは、ヘレニズムの思想だ。古代ギリシャでは、前三世紀にマケドニアが力を伸ばし、アレクサンドロス大王はギリシャからペルシャまで広がる広大な王国を作りだした。そして、この大王国の出現により、ギリシャ的な世界観はペルシャ世界にまで広がり、結果としてギリシャ文化とペルシャ文化との融合を可能にした。こうしたギリシャ世界の拡大の時代をヘレニズム時代と呼ぶが、このヘレニズムの時期には、独特の哲学も誕生した。 ヘレニズムの哲学は、一般的にいくつかの類型に分類される。代表的なものはストア派、エピクロス派、懐疑主義、キュニコス派、などである。これらの諸派はどれも魂の平安-アタラクシア-を求める点では共通していたが、アタラクシアに至る方法に大きな相違があった。 ストア派は世界の秩序を、物質にロゴス(自然の摂理)が働くことによって成り立つものであると考え、人間の生もロゴスによって秩序付けられるべきであると考えた。そして、非ロゴスであるパトス-情念・感情-に振り回されて生きることを否定した。こうした姿勢から、ストア派は禁欲主義などとも呼ばれることがある。 懐疑主義は、判断停止-エポケー-をアタラクシアへの道であると考えた。懐疑主義と呼ばれる彼らは、普遍的な真や普遍的な実在と呼べるものの存在に対して懐疑的であった。それ故に彼らは、そうした普遍性を求める問に終わりは存在せず、その先にアタラクシアはあり得ない、と考えた。だからこそ、彼らはそうした問に対しては、判断停止(判断留保)をすることが必要である、としたのであった。 この姿勢は一見すると、非常に消極的な姿勢であるようにも思えるが、裏を返せば知に対する現実的な視点をもっていたということでもある。そこから普遍への知の旅路を始めない代わりに、目の前の事実を事実としてありのまま受け入れ(どうあるべきか、ではなく、どうあるか、に着目し)、現実の生活や自身の幸福にどう役立てることができるか、を彼らは現実的に思考していたのである。 エピクロス派の代表とされるエピクロス派、デモクリトスの原子論的世界観を応用し、独自の哲学を展開していた。エピクロスによれば、人間の肉体は原子によって構成されており、そ...