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1月, 2017の投稿を表示しています

進学に向けて② 孤独なツバメたち

進学に向けて② 孤独なツバメたち 今日は、孤独なツバメたちという映画を観て感じたことをだらだらと書き連ねようと思います。 最近、日本にいる定住者(デニズン)について勉強をしていて、その勉強の一部としてこの映画を観ました。内容は、静岡県の浜松市における日系ブラジル人のデカセギの子どもたちを追ったドキュメンタリー映画です。作中では、彼らが法的な地位と現実の乖離にどのように翻弄されているか、がありありと描かれています。 日本には、入国管理の法律はありますが、入国した彼らを社会に統合する法律はありません。それは、日本は一般的に入管法の意図としては、将来的に定住化し、統合が必要になるような滞在資格ー即ち外国人労働者ーの入国を認めていないからです。 あら?と思った人もおおいでしょう。 実際に日本のメディアの報道でも日系ブラジル人の労働者などの外国人労働者の問題が報道されることもあるし、そもそも少し前に僕も”日系ブラジル人のデカセギ”と書いています。だから、今僕が書いた内容には一見、矛盾があるように思えます。 しかし、この二つの内容はともに事実で、矛盾では決してないのです。それはなぜかというと、日系ブラジル人は日本の入管法に基づく法的な立場では、「定住者」という位置づけで、はじめから短期滞在の外国人労働者としてみなされていないのです。そのかわり、国家は彼らについて、文化的には日本人と類似していて、故に統合政策は必要ない、と意図していました。 ですが、実際には彼ら日系ブラジル人は血統的には日本人の要素が混ざっていますが、文化的には完全にブラジル人で、日本社会も彼らを決して日本人と同等とはみなさず、外国人とみなします。 それ故に法律的には「統合政策は必要のない存在」とされていながら、実際は「統合が必要な外国人労働者」としての日系ブラジル人が存在しているのです。 つまり、法的な意図と、現実に大きなギャップがあり、それによって「存在しないはずの外国人労働者」が存在してしまっているということです。 統合政策がない、ということは、彼らのような移民にとっては社会から排除されるにほとんど等しい状態です。労働は短期間の不安定な単純労働職にしか就けず、満足な社会保障も受けられない。教育を受けようにも積極的に移民を支援する教育政策もない。そして、その状態を問題視する...

進学に向けて 顔の見えない定住化 序章

進学に向けて!① 顔の見えない定住化 序章 こんばんは。 突然ですが、今日からひとつ新しいコンセプトをもって読書に挑戦していこうと思っています。自分は今年で大学も四年目ということもあり、進路と真剣に向き合う時期を迎えています。自分は就職ではなく、進学という道に進むのですが、そのためにはいろいろやらなければならないことがあります。そして、その中でも重要なのが読書です。なので、今日からは、 ”進学に向けて!” というタイトルの下、進学のための参考文献を読了したものをまとめる、ということにも新しく挑戦をしていこうと思います。 なるべく早く読みたいので、速読のメソッドは駆使しつつ読んでいくのですが、自分は様々背景があってこれまで自分が勉強してきた内容とはあまり関わりのない、自分のあまりよく知らない分野の内容をこの挑戦の下では勉強していくので、どうしても読むのに時間がかかってしまいます。なので、内容が薄くなってしまうことも多々あると思いますが、めげずに頑張ろうと思います。 さて、第一回目の今回は「顔の見えない定住化」という本の序章を読みました。読了時間は2時間と、20ページの内容にも関わらず、信じられないほど時間をかけてしまいました。 やはり、自分の知らない情報がほぼ100%で書かれている本を読むのは大変ですね。情報の取捨選択の基準もないので、すべての新しい情報に気を取られてしまいます。 内容について 序章ということもあり、この本全体が何に焦点を当てて、それをどのような視点から考察していくのか、ということがかかれていました。この本は日本におけるブラジル移民についての学術研究なのですが、どうやらこの本はブラジル移民の日本への移住過程を社会の構造的制度的要因との関係の下、理論化するということが第一の目標のようです。 構造的制度的要因として、この本の中で着目するのが、「国家」「市場」「移民ネットワーク」の三要因なのですが、一般論では移民の移住過程を構築する方法は「国家と市場」と「移民ネットワーク」でそれぞれ違うそうです。一般的には「国家や市場」は移民国家レジーム(国家による入国管理と移民統合の体系を構築する言説・政策の型)を通じて構成し、「移民ネットワーク」それとは独立した方法で移住過程を構成します。 しかし、日本の構造は少し特殊で、本来あまり親和的でない...

J.S.ミル著 自由論⑤

J.S.ミル著 自由論⑤ 第五章 適用 2017年1月22日 読了時間:30分 内容について この章は様々な具体例を用いて、この章以前までに述べられてきた原理がどのように現実に適用されるのか、またどのような限界があるのか、が示されています。 まず、ミルはここまで述べてきた原理が二つの格率によって成り立っていることを示します。その二つの格率というのが、 ①個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない、ということ ②他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とするという意見である場合には、個人はそのいずれかに服さねばならないであろう、ということ の二つです。 この二つが、ミルが述べてきた自由と制限に関する原理なのですが、ミル曰く、この原理を現実に適用した際には、その適用は単純なものではなくコンテクストに応じてこれらの格率は限界を持つのだそうです。(つまり、これらの格率は決して絶対的に自由や正当な制限において実現されなければいけないようなものではなくて、正当な制限や自由の状態中には、それらの格率を満たしていないような例外的な状況がありうるということだと思います。) 正直、具体的な限界については様々な例が列挙してあり、どのように整理して記述すればよいのかわからないので、書きません。(もちろん、自分の理解が十分ではないということが大きな要因です(笑)) 限界っていったいどういう意味での限界なんだ、ということがよくわからないとは思うので、ミルが述べている、格率の限界の例を一つだけ書いておきます。 ミル曰く、他人の利益に損害を与えること、もしくは損害を与える惧れがある時にのみ社会の干渉が正当化されるとはいえ、そのことは社会の干渉は常に正当化される、とは断じてはならないのだそうです。 それは、多くの場合において個人の正当な目的を追求することに依って、必然的に―すなわち合法的に―他人に苦痛や損害を与えてしまうことはあるからです。たとえば入学試験では、”合格”という目的追求は、他者に避けがたく”不合格”という損害をあたえます。しかしだからといって個人が合格を目指そうとする行動に社会が干渉をすることは正当ではないでしょう。これ...

J.S.ミル 自由論④

J.S.ミル著 自由論④ 第四章 個人を支配する社会の権威の限界について 2017年1月22日 読了時間:30分 内容について この章では、個人の自由に対してどのような制限が正当な制限として社会の権威に認められるか、個人はどのような制限を受けるべきか、という問いに応えています。 まず、基本的な姿勢として、ミルは純粋に個人にのみ関わることに関しては社会は一切関与をすることはできず、社会に関する個人の行動のみ社会には制限を行う可能性があるといいます。 それをミルは個人に与えられるべき二つの制限という形で言い換えます。 ①個人は相互の利益を害さないこと ②個人は社会またはその成員を危害と干渉から守るために生じた労働について、各人は自己の分担を負うということ この二つです。 少し複雑になった感じもしますが、基本的にミルのいっていることは個人は純粋にその個人にのみ関することであれば、自由であり社会からの干渉を受けることはない、ということです。 しかし、ここで一つ問題が生じます。それは、完全にある個人にのみにかかわる行為なんて存在するのだろうか、という問題でした。人間はみな社会の中に存在しているので、いかなる行動も他者の利害と結びつき得るのではないか、ということです。そうなると、いかなる行動にも社会からの干渉の余地が生じてしまいます。 これに対してミルは、個人の純粋にその個人にのみかかわるように見える行動が他の成員に影響を与えることの可能性を認めたうえで、こう答えます。 ”個人に対してか、あるいは公衆に対して、明確な損害または明確な損害の危険が存在する場合には、問題は自由の領域から除かれて道徳や法律の領域に移される” しかし、 ”ある個人が、公衆に対する明確な義務に違反することなく、また自己自身以外の、誰それと名指しすることのできる個人に対して明白な損害を与えることもないような行為によって、社会に及ぼす単に偶然的な―あるいは推定的とも呼ばれうるような―損害に関しては、社会はこの迷惑を、人間の自由という一層重大な利益のために耐え忍ぶことができないわけではない” つまり、個人が個人的な行動によって社会に与えてしまう影響については、その個人とその社会への影響が明らかに明確であるという場合を除いては、個人は社会の制限を受ける必要はなく、自由が...

J.S.ミル著 自由論③

J.S.ミル著 自由論③ 第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について 2017年1月21日 読了時間:30分 ここまできて改めて気づいたので、メモをしとくんですが、ミルにとって自由というのは幸福の条件の一部なんですね! 内容について この章では、個性の自由について、なぜ人間の個性の発現は制限を受けるべきでないのか(自分自身の責任と危険とにおいてなされる限りにおいての意見の実行についての自由)、ということが社会と個人にとってのメリットの点から論じられています。 この章でミルが個性の発現に対する障害として考えているのは習慣であり、社会が持つ習慣に沿った行動を個人に要請してくる様々な圧力のことです。ミル曰く、社会のそうした傾向は非常に根強く、社会の理知的な側面が多様な個性の存在が社会にとっても個人にとっても有益であることを自覚しない限り、その傾向は変わらないといいます。 それはさておき、ミルの説明を見てみます。 まず、社会にとってはどのようなメリットがあるとミルは言っているのか。 社会が進歩していくためには、変革や進化が必要なのですが、そのためには習慣にとらわれない独創性が必要であるとミルは言います。つまり、習慣からの圧力が強く独創的な天才的な個性が制限され、凡庸であることが美徳として認知される社会では進化や変革は起こらず、濁った水たまりのような社会になってしまうといいます。 故に、社会が変革され発展していくためには、独創性を許容する傾向、つまり、自由な個性が保障されていることが必要であるということです。 次に、個人にとっての側面を見てみます。 ミルの説明によると、人間というのはそれぞれ異なっています。思想や良心も人それぞれ異なっています。それ以外のありとあらゆる側面でも人間は互いに異なっています。つまり、人間が成長するために必要な刺激も個々人の間で異なっているのです。しかし、習慣に基づく平均的な行動しか許されない社会では、個々人が成長のために要求する多様な刺激をカバーすることはできません。つまり、個々人がそれぞれ成長していくためには、習慣にとらわれることのない多様な行動とそれに伴う多様な刺激が必要であるということです。言い換えれば、自由な個性の発現を保障するということは個々人の成長の可能性を広げることでもあり、それがミルの曰く個...

J.S.ミル著 自由論②

J.S.ミル著 自由論②  第二章 思想および言論の自由について 2017年1月21日 読了時間:30分 内容について 序章で述べた自由の三条件(人類の精神的幸福のための条件でもある)のうちの一つ、思想や言論の自由について、人々のそうした自由になぜ政府がいかなる形であっても制限を加えてはいけないのか、また、なぜ政府以外の如何なる権力もそうした思想や言論に如何なる制限も加えてはならないのかについて述べています。 ミルは、その理由について4つの根拠を示します。 ①抑圧を受けたその意見が、真理かもしれないから ②基本的にどの言説も、完全なる真理ではなく誤謬をすくなからず含んでおり、そうした誤謬は対立意見との衝突によってのみ補完され完全な真理へと近づいていくことができるから ③完全なる真理が仮定的に存在を認められたとしても、その意見への挑戦が認められず、受容のみが許されるとき、受容者はその意見の合理的根拠を気に留めなくなってしまうから(合理的根拠を気に留めることが受容者として重要なことであるとミルは考えている) ④教説は受容者の理性や個人的経験と結びつくこと(反対意見との交流などを通して得られる)で受容者の内部にその意見に対する確信が成長するのであるが、意見や教説がそうして受容者の性格的に与えるそうした影響が失われ得るから という理由で、ミルは思想や言論がいかなる意味においても自由が保障されていることが重要であると述べます。 そのうえでミルは、だからといって議論をする者が決してどのような態度であってもよいわけではないということを最後に少し付け加えます。議論を行うものは、公の議論に関する真の道徳に従い議論を行うのが望ましいと述べています。

速読多読 佐藤優著 資本主義の極意

速読多読 佐藤優著 資本主義の極意 2017年1月20日  読了時間:3時間 今年になって初めて書店を先日訪れたので、早速新書を何冊か買ってみました。そのうちの一冊を昨日速読の練習に使ったので、それについて書きます。 内容について この本は、マルクスの資本論と宇野さんという経済学者の理論を組み合わせて資本主義を分析し、資本主義の分析を通して現代社会で起こる様々なことを読み解こうという試みです。 両者の理論を組む合わせる背景としては、資本主義の発展を考えたとき、その核心といえるマルクスの理論は資本主義の起源としてのイギリスでの資本主義の分析には非常に役立つものの、イギリスの資本主義化に影響を受けて後発的に資本主義を発展させてきた日本やその他多くの諸国の資本主義を分析するためには不十分であるためでした。 宇野氏は、資本主義を分析する際には、原論、段階論、現状分析、という三段階の分析を経なければならないと考えており、マルクスの資本論のみによると、原論と現状の間の過程である発展段階が理解できないことになります。こういった理由から、マルクスと宇野氏の理論をこの本では採用しているようです。 まず、マルクスの資本論から資本主義の根幹にあるのは、「貨幣の資本化」という現象と、「労働の商品化」という二つの現象です。 貨幣が生まれる前は、商品が唯一の資本であり、商品が買い手にとってもつ持つ使用価値に基づいて商取引が行われていました。つまり、買い手にとっての実用性と必要性が価値の基準であり、それは安定しないものでした。しかし、しばらくして「貨幣」が生み出されます。貨幣の特徴は「一般的等価物」である、ということです。簡単に言えば、貨幣は使用価値という基準にとらわれることなく、何とでも交換ができうるものであるということです。 そして、貨幣の導入によって商取引のプロセスは、 商品Aー商品B という過程から、 商品A-貨幣ー商品B というプロセスに変わっていきました。 加えて最後には貨幣それ自体が資本(何かを手に入れる元手)になっていきました。 これを「貨幣の資本化」と呼びます。 この貨幣の資本化に加えて資本主義の発生にとって肝要なのが、「労働の商品化」でした。この背景には「無産階級(プロレタリア-ト)」の出現があります。むさんかいきゅうというのは、富を...

J.S. ミル著 自由論①

おはこんにちばんは! 冬休みも終わって、新しい一学期が始まりました。 外は一面の雪景色、授業でもなければあまり外には出たくないですね。 そんなときは、やっぱり部屋で読書が一番です。 さて、というわけで「読書の冬」ということで、今夜は「自由論」を読み始めました。 今日から何日間かで、読んでいこうと思います。目標は週末まで、ということにします。一応速読を心がけて読むので、そんな感じで行こうと思います! J.S.ミル著 自由論① 自由論、きっと皆さんの多くはタイトルはきいたことがあるでしょうし、おそらく読んだことがある人も多いと思います。恥ずかしながら、自分は3年前に買ったのはいいのですが、それからずっと本棚の隅で眠っていて、ようやく長い眠りから覚めました。笑 今日は全部は読めなかったので、第一章の分だけ要約をします! 2017年1月19日 読了時間:30分 要約 自由論は、政治的自由や社会的自由と呼ばれる自由について論じたものである、とミルは初めに述べます。それはどういうことかというと、一言で言えば、個人と権力の関係、もっと言えば、権力に与えるべき制限に関してどのような制限が正当な制限と呼べるのかについて書かれた本であるといえます。 民主主義ではなかった時代について考えれば、権力者VS個人という対比がわかりやすく、権力の制限が権力者の力の制限ということだとわかります。しかし、民主主義の社会ではどうでしょう。民主主義社会は自治的な社会です。市民が市民を統治します。そう言う社会に関して、権力への制限を考える必要があるでしょうか。言い換えるならば、市民が市民を統治する社会としての民主主義社会においては、権力者と市民が等しくなっているように思えます。つまり、権力者へと市民が制限を加えることを考えるとき、それは市民が市民自身に制限を加えることを考えることになります。自分自身が自分自身の自由を妨害してしまうことがあるでしょうか?もしもないのなら、こんなことを考える必要は無いようにも思えますよね。 ですがミル曰く、民主主義社会において「自治」が意味するところは、決して自分自身が自分自身を統治することではないのです。「自治」という言葉が意味するところは、実際は「多数派」が「個人」を統治するということなのです。つまり、民主...